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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】城にまつわる面白い話②――秀吉の一夜城(その2)・石垣山城

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豊臣秀吉には墨俣城の他にも一夜城伝説をもっている。
そのうちのひとつが、小田原城を攻めた際に築いた「石垣山一夜城」、相模の石垣山城(神奈川県小田原市)である。秀吉は全国各地の諸将に命じて小田原城を包囲させた。しかし、かつて上杉謙信・武田信玄の攻撃を撥ね返したこの城が堅固なことは当然知っており、長期戦になるだろうとあらかじめ読んでいた。

そこで秀吉は、小田原城の西方に位置する丘に陣城を築くよう命じた――それが石垣山城であるわけだが、これは先の墨俣城のようなにわか作りのものでは断じてなかった。複数の曲輪と穴太衆による石垣を備えた、立派な城である。
この城を80日余で仕上げたというのだから、すさまじい突貫工事である……塀や壁に紙を貼って白壁に見せかけた、といったある種のペテンはあったにせよ。

しかし、80日余かかったのだから、「一夜城」というのはこれだけではちょっと無理がある。
にもかかわらずこの名がついたのには、さらなるペテンの存在がある。実は工事中の間、この城の前面には樹木が立ち並んでいて、小田原城から見えないようになっていた。そして完成するやこの木をすべて切り倒したので、北条方からすれば「1日のうちに城ができてしまった!」ことになった、というわけだ。

とはいえ、いくら短期間で築かれたとはいえ、小田原城側が石垣山城の工事の様子に全く気づかなかったということはないだろう。それでも、このような強固な城がわずかな期間で出現したということ自体に、小田原城側は危機感を覚えたはずで、小田原城落城に少なからぬ影響を与えていただろう。
やがて、3ヶ月に及ぶ籠城戦の末に小田原城は開城した。その後、奥州仕置の帰りに秀吉が滞在し、小田原城主となっていた大久保忠世に石垣山城を与えた、と伝わる。

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