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【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台①――夫の仇をとるための奮戦の舞台となった城・鶴崎城

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合戦が打ち続いた戦国時代、政略結婚が当たり前だった戦国時代は、各地で悲劇が演じられた時代でもある。
特に城が落ちる時というのは、本来は戦場にかかわることがない女性たちもまた合戦に巻き込まれる可能性が高くなるということであり、結果として大小様々な悲劇が生まれることになった。
女性関係だけでなくとも、城という自らの持ち場を守るために悲劇的な玉砕に挑む武将もいれば、孤立した末に滅ぼされた勢力もある。それら、籠城にまつわる悲劇――そして、その中でも必死に自らの仕事を果たそうとした人々の奮闘の物語を紹介したい。

豊後の鶴崎城(大分県大分市)は、大友氏の家臣である吉岡氏が居城とした城である。立て籠もって戦うには不向きな部類の城であったらしい。
この城で、女城主として指揮をとり、敵を迎え撃った女性の伝説がある。彼女の名は妙林尼(みょうりんに)。吉岡鑑興(よしおか あきおき)の妻だったが、夫は1578年(天正6年)の耳川の戦いで島津軍と戦った時、戦死してしまった。その後、息子の統増(むねます)が鶴崎城主となる。

しかし、1526年(天正14年)に島津軍が豊後に攻めてくると、統増は大友宗麟の命令を受けて大友氏の居城・丹生島城に招集される。こうして鶴崎城が城主不在となったため、妙林尼が実質の城主として兵を動かすことになったのだ。
鶴崎城の守りの薄さをカバーするため、妙林尼は兵に命じて落とし穴や柵を備えさせることによって、防御面の不足を補った。正面には城内の鉄砲をあるだけ並べ、敵の襲来に備える。

いざ島津軍が攻めてくると、その兵力の差は圧倒的だった。
しかし妙林尼が事前に仕掛けておいた落とし穴の効果は絶大で、敵がそこにはまったところへ鉄砲で一斉に射撃を加えることによって、敵を確実に仕留めていく。敵が罠に警戒して動きを鈍らせると、そこにも射撃を加えていった。しかも彼女は自ら城の外へ打って出て、敵軍に切り込み、20人以上を討ち取ったという。
それでも、やがて兵糧や銃弾は底を尽き、戦うには限界となる。妙林尼は潔く城を明け渡し、鶴崎城は落城したのであった……。

ところが、彼女にまつわる物語はここでは終わらない。城下の屋敷へ移り住んだ妙林尼は、島津軍の兵と交流を持って相手を油断させ、彼らが薩摩に帰国することになるとそれについていくと申し出た。そして島津軍が鶴崎城を出立すると、あらかじめ潜ませておいた兵らにこれを襲撃させたのである。
こうして夫の敵をとってみせた妙林尼の働きは宗麟に高く評価され、統増にその恩賞を与えたという。また、豊臣秀吉も妙林尼を賞賛し、彼女に恩賞を与えたいと言ったが、妙林尼はそれをかたくなに受け取らなかったとされている。

その後の彼女の消息については不明だ。島津側の将と妙林尼の間にある種のロマンスがあったといい、夫の死やその武将の死を受けて複雑な心の動きがあったのではと見る向きもあるが、確かめようがない。
しかし、妙林尼は女城主として立派に役目を果たした、と伝説は伝える。

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