攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

宇喜多直家 の検索結果:

【家康の謎】家康はなぜ五大老の筆頭に選ばれたの?

…吉の中国攻めを支えた宇喜多直家の遺児で豊臣・前田とは縁戚関係にある。この二人は秀吉にとって身内カウントであると言っていいだろう。毛利輝元・小早川隆景・上杉景勝は織田政権にとっては本来敵対者であったが、秀吉が政権を掌握する過程において協力関係を結び、臣従することになった。 そして家康は秀吉にとって織田政権の継承者を目指す戦いの中での重大な障害であったが、最終的には臣従させることができた相手だ。小牧・長久手の戦いで激突はしたものの、雌雄を決するような殺し合いはしなくて済んだ。また…

【戦国を彩る名軍師たち】実は外交・交渉で活躍した蜂須賀正勝

…切り崩すとともに味方を強化する役目を果たしたのであり、宇喜多直家や安宅直康といった武将たちが織田氏に従ったのも、彼が仲介役を担った結果であったという。さらに毛利攻めの最終局面である高松城攻めの際も、黒田官兵衛とともに外交の最前面に立ち、毛利方の外交官である安国寺恵瓊との交渉を行なっている。その活躍があったればこそ秀吉の中国侵攻は成功したのであり、またその後の飛躍があったのだ――というのは、必ずしも大げさな話ではないはずだ。 初出:『歴史人』ウェブサイト(2013年9月17日)

鳥取城 日本史に残る、凄惨な籠城戦の舞台

…と目を向けた。備前の宇喜多直家は降伏を申し出て、但馬は秀吉の弟・秀長によって平定されていた。そこで秀吉の次なる標的が因幡となった。 1580年(天正8年)、秀吉の大軍が鳥取城を攻め、山下の町を焼き、別の城にいた人質を使って豊国に開城を迫った。人質の娘に槍がつきつけられ、豊国はたまらず開城を申し出ることになる。 翌1581年(天正9年)に、豊国の代わりに吉川経家がこの城に入っている。経家は毛利両川・吉川元春の一族。毛利両川は戦国大名・毛利元就が有力者である吉川氏、小早川氏の力を…

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