攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

安土桃山時代 の検索結果:

細川竜太郎さんの姫路城攻城レポート

…る。戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。池田氏に始まり譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や親藩の松平氏が配属され、池田輝政から明治維新時の酒井忠邦まで約270年間、6氏31代が城主を務めた。現存12天守の1つである。 大天守と西小天守 備前丸からみる大天守 天守の鯱 大天守から化粧櫓のある…

戦国時代のはじまりと終わり

…これは義昭追放後を「安土桃山時代」としているため。また「一般的には」とことわりがあり始期と終期に諸説あることを補足しつつ、巻末の年表では1438年(永享10年)の「永享の乱」から「島原天草一揆」までになっている 「クロニック戦国全史」では「享徳の乱」から「大坂の陣」まで といった感じで少し古い書籍も含まれているとはいえ「応仁の乱」説が濃厚でした。「島原天草一揆」までを戦国時代とするのはおそらく幕末の動乱をのぞけば、これが最後の内乱だということなのでしょうね。 なんで曖昧なのか…

【戦国時代の境界大名】柳生氏――めまぐるしく変わる情勢の中、一芸に活路を見出す

…けてきた家は少ない。安土桃山時代(織豊時代)を通して織田・豊臣・徳川の家臣団が全国に配され、その末裔が大名として残った例が多いからだ。そのほかの戦国時代を生き残った大名たちも、なんらかの形で転封されたケースが多々見られる。そのなかで、父祖の地を守り続けた数少ない例のひとつが大和柳生藩だ。 柳生氏といえば剣術、柳生新陰流と考える人も多いだろうが、柳生の歴史を追ってもその名はなかなか出てこない。まずは大和国(奈良県)の山奥にひっそりと暮らす小国人の歴史を追うのに少々付き合っていた…

特別展「桃山─天下人の100年」の後期展示を見てきました

…れば、黒書院のほうは安土桃山時代、大広間は江戸時代初期に見られる意匠で、黒書院のほうは家康が築城した頃の釘隠しの可能性があるとのこと。ちなみに「桐に鳳凰」や「雲に龍」は定番の図柄の組み合わせで、たとえば桐は鳳凰の止まり木ということからセットで描かれます(ほかに「竹に虎」「牡丹に唐獅子」など花札でよく見る図柄はだいたいそうです)。 ただ前回の調査では「九七の桐」は足利義昭が使用したことしかわからなかったので、なぜ徳川家の二条城に使われているのかも謎のままです。でも「九七の桐」が…

【江戸時代のお家騒動】暗君に代わって主家を奪取する!

…ースは主に織豊時代(安土桃山時代)から江戸時代初期にかけて起きたものであり、性質として「お家騒動」に近いため、本連載で取り扱うことにした。 これらの事件では流血を伴うような大規模な騒乱が起きなかった。下剋上が本質的に武力反乱であって多く合戦や粛清などを伴ったのに対し、「主家異動パターン」の事件ではこれがなく、血は流れても当主が死ぬだけなど小規模なものにとどまっている。争いの主役になったのは(しばしば中央政権の意向をバックにした)政治的闘争であった。また、主君に代わって支配者の…

二条城で開催された二の丸御殿大広間四の間特別入室と学芸員解説会に参加してきました

…おいての「桃山」は「安土桃山時代」というように信長と秀吉の時代、つまり徳川家康が征夷大将軍となった1603年(慶長8年)までを指すけれど、美術史や建築史においての「桃山」はそれより少しあとの寛永年間(1624年〜1644年)あたりまでを含むのでちょっとずれていると教わりました。二の丸御殿や唐門など、二条城の建築物はすべて「桃山」の時代様式、それも桃山末期のとして扱われているそうです。 このあと二の丸御殿内に移動して、大広間四の間の室内に入って説明を受けました。(四の間には現在…

石垣の種類(石の加工技術や積み方、外観による分類)

…積み上げる方法です。安土桃山時代以降に用いられた積み方です。いろんな形の石を崩れないように積み上げるため、乱積みのほうがむずかしいといわれます。いわゆる職人芸ですね。 乱積みは「乱層積み(らんそうづみ)」とも呼ばれます。 また派生系としては、布積みの発展型とされる「整層乱積み(せいそうらんづみ)」という積み方もあります。基本的には布積みの手法を踏襲しているのですが、石を水平にしたり垂直に立てて使ったり、あるいは一方の隅を打ち欠いたりして横目地を通さない積み方で、横目を通さない…

城大工と宮大工

…宮大工というように、安土桃山時代にお城に天守が築かれるようになると、宮大工が登用されました。 その理由は、当時の日本で高層建築物(もちろん木造)は五重塔などに代表される、寺院の塔や社殿くらいでしたから、天守の造営において宮大工の技術が必要だったからです。 その影響として、寺院建築特有の装飾である華頭窓や唐破風などが天守にもあります。 棟梁は城の構造のすべてを知っている重要な存在ですから、待遇も良かったようですね。 中井正清は従四位下・大和守の官位をもらい、1000石を知行して…

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