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戦国時代のはじまりと終わり

戦国時代とはいつからいつまでを指すのか。

これは前に書いた「日本にお城はいくつあったのか」に次ぐくらい、よくある質問ですけど、はっきりした答えはないんですよね。

たとえば手元にある山川出版社の『日本史用語集』によれば、次のように書かれています。
(受験勉強のときに買ったのをいまでも持ってるなんてすごいでしょ)

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戦国時代
応仁の乱後、約1世紀間、全国に大名が割拠して激しく争った時代。守護大名に代わって戦国大名が台頭し、いわゆる下克上の風潮が一世を風靡(ふうび)した時代で、信長・秀吉によって統一された。 山川出版社『日本史用語集』(全国歴史教育研究協議会 編)

これによると、はじまりは「応仁の乱」で、終わりはどうなんでしょうね。「信長・秀吉によって統一」となると、「小田原征伐(1590年)」あたりな感じですが、そうするとそこから江戸時代までをなんと呼ぶのかという話になりますよね。

じっさい教科書では室町時代のところと江戸時代のところは斜めに区切り線が入っていて、境界となる年度を曖昧にしていた記憶があります。
事実、この間には南北朝時代や安土桃山時代なんてのもあるので、なにを基準にするかによって時代の区切りは変わらざるをえないのでしょうね。
ちなみに「戦国時代」という言葉が広く使われるようになるのは、明治維新以後のことだそうです。

「守護大名に代わって戦国大名が台頭し」とあるように、戦国時代というのは室町幕府の支配力が弱まったことを契機に生まれた時代で、そのきっかけとなったのはいつかということになります。

いくつかの資料をもとに、戦国時代のはじまりと終わりとなる年や出来事をまとめてみますね。

戦国時代のはじまり

もっとも多いのが1467年(応仁元年)から1477年(文明9年)までの約10年間にわたって継続した「応仁の乱」を契機とするものでした。
余談ですが、「応仁の乱」の戦乱期間の大半は文明年間であったことから「応仁・文明の乱」というのがより正しい名称のようです。

ただし「応仁の乱」後も、依然として室町幕府の中央集権体制は存続していたので、完全に瓦解することになる1493年(明応2年)の「明応の政変」を始期とみなす学説が最近は有力だそうです。

ところで「明応の政変」っておぼえてますか。ぼくは完全に忘れてました。
「明応の政変」は「応仁の乱」の際に東軍を率いた細川勝元の子である細川政元が中心となって起こしたクーデターで、10代将軍・足利義材を追放して、足利義澄を11代将軍に擁立した足利将軍廃立事件です。

この政変によって幕府の権力が二分されたため、室町幕府の政権としての機能は失われました。
そのため全国の戦乱と下克上の動きを恒常化させる契機となり、東国における伊勢宗瑞(北条早雲)の台頭に代表されるように、各地で戦国大名が領国の実権を掌握し、さらには奪い合うようになりました。

このあたりの話はゆうきまさみ先生のマンガ「新九郎、奔る!」がおもしろいのでぜひ。

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戦国時代のはじまりとして考えられる年と出来事

出来事
1467年(応仁元年) 応仁の乱
1493年(明応2年) 明応の政変

戦国時代の終わり

戦国時代はいつ終わったのかというのは、いいかえると室町幕府に代わるような安定政権がいつ誕生したのかということでもあります。
いわゆる「安土桃山時代」を踏まえるなら、1568年(永禄11年)の織田信長の上洛、1573年(元亀4年)の信長による15代将軍・足利義昭追放あたりが終期とされています。

ただし義昭は京都から追放されたとはいえ、そこで室町幕府が終わったわけではなく、義昭はその後も征夷大将軍でありつづけたと公式記録(公卿補任)には記されており、毛利輝元の勢力下であった備後国の鞆に移って「鞆幕府」と呼ばれる亡命政府が継続しています。

事実、信長以前には、1553年(天文22年)8月に三好長慶が13代将軍・足利義輝を京都から追放してこれに代わる将軍を擁することなく政権を担った先例があり(義輝は近江朽木へ亡命したが、1558年(永禄元年)に帰京)、義昭追放をもって幕府滅亡とするのは、その後義昭が政権に返り咲かなかった結果から遡った評価にすぎないため、追放の時点で滅亡とするのは正しくないという説もあります。

では室町幕府が(事実上ではなく)正式に滅んだと考えられるのはいつかというと、追放から15年後の1588年(天正16年)1月が該当します。
織田信長はすでに「本能寺の変」によってこの世になく、その後継者となり、関白にまでのぼりつめた豊臣秀吉に義昭は忠誠を誓い、将軍職を辞任しています。

しかしご存知のように、秀吉が関白になったといっても戦国大名と呼ばれる有力者は全国各地に依然として存在し、北条氏のように明確に秀吉に恭順の意思を示さない大名もいました。
その北条氏を降伏させて天下を統一したのが、1590年(天正18年)の「小田原征伐」です。小田原城を包囲中に、伊達政宗ら東北の大名も秀吉に恭順の意を示したため、名実ともに秀吉の天下統一事業が完遂された年といえます。

ちなみに「惣無事令(豊臣平和令)」はこれに先立ち、1585年(天正13年)10月に九州地方、1587年(天正15年)12月に関東・奥羽地方に向けて制定されていましたが、じっさいには戦乱が終焉したわけではないのでこれを終わりのタイミングとする説はなさそうです。

ほかに考えられるのは、徳川家康が実質的に天下人になった1600年(慶長5年)の「関ケ原の戦い」を始期とする説、その家康が征夷大将軍に任命されて江戸に幕府を樹立した1603年(慶長8年)を始期とする説があります。

さらには最後の大規模な軍事的衝突であり、豊臣家を滅ぼし対抗勢力が皆無となった「大坂の陣」までを戦国時代とする説もあるようですね。
この場合、1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」を指します。1615年(慶長20年)は「元和偃武」と呼ばれ、幕府は同年7月に元号を元和と改めて、天下の平定が完了したことを内外に宣言しています。

こうして整理してみると、戦国時代の終わりの時期についてはかなりたくさんありますね。

戦国時代の終わりとして考えられる年と出来事

出来事
1568年(永禄11年) 織田信長が入京
1573年(元亀4年) 信長による将軍足利義昭追放
1588年(天正16年) 足利義昭が将軍職を辞任
1590年(天正18年) 豊臣秀吉による小田原征伐
1600年(慶長5年) 徳川家康が「関ケ原の戦い」に勝利
1603年(慶長8年) 家康が江戸幕府(徳川幕府)樹立
1615年(慶長20年) 「大坂夏の陣」で豊臣家が滅亡(元和偃武)

まとめ

答えのない話なのですが、始期については1493年(明応2年)の「明応の政変」でいいような気がしますね。
終期についてはいろいろありましたが、実質的に天下統一事業が完遂したと考えられるのは1590年(天正18年)の「小田原征伐」かなあ。権力的にも政治体制としても、この時点の豊臣家は国内を支配していたわけですし、それは「室町幕府に代わる」だけのものだったと思いますし。

でもそうすると冒頭に書いたように、ここから江戸時代がはじまる1603年(慶長8年)までの13年間の呼び方に困りますよね。
ちなみにその江戸幕府についても始期を家康が「関ケ原の戦い」に勝利した1600年(慶長5年)とする説もあるようですし、

終期についても、徳川慶喜が大政奉還を明治天皇に上奏した1867年(慶応3年)とする説と、「王政復古の大号令」によって明治政府樹立を宣言した1868年(慶応3年)とする説があるので、こうした時代の区切り年については、諸説あるのは珍しいことではないみたいです。

また新しい話を見たり聞いたりしたら補足していきますね。

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