家康本陣 の検索結果:
…った戦いの中で、信繁は三度にわたる家康本陣への突撃を敢行。家康まで後一歩と迫ったものの、側面からの攻撃にこらえきれず、力尽きた。 大坂城は内部からの火で燃え、追い詰められた秀頼とその母で大坂城の実権を握っていた淀殿もまた、自刃して果てた。豊臣政権はその後継者と象徴を失って完全に消滅し、以後長い間武士同士の大規模な合戦は日本より絶えてなくなった。戦国時代は終わったのである。大坂城の炎上は、まさにその象徴であった。 kojodan.jp kojodan.jp kojodan.jp
…への突撃を敢行、三度目にはついに家康本陣にまで迫った。これに驚いた家康が自刃を口にするほどの迫力であったというが、幸村の奮闘もここまでだった。三度目の突撃でついに力尽きた彼は戦死し、それからまもなく大坂城も落ちたのである。 結局、豊臣家は滅び、幸村もまた倒れたわけだが、彼の名は「真田日本一の兵(つわもの)」として多くの武士たちが語り継いだのだった。 初出:『歴史人』ウェブサイト(2012年1月26日) kojodan.jp kojodan.jp blog.kojodan.jp
…する。 1615年(元和元年) 49 信繁、家康から寝返りの条件として「信濃一国40万石を与える」と提示されるがこれを断る(諸説あり)。「大坂夏の陣」で家康本陣に突入するも5月7日、討死(安居神社)。幸昌は秀頼を警護していたが、5月8日に秀頼・淀殿母子とともに自刃。 ほんとはそれぞれの側室と結婚した年とか、子どもが生まれた年も入れたかったんですけど、信繁はそういう記録が残るほどの武将じゃなかったみたいで、ぜんぜんわかりませんでした。 (まあ信繁本人の誕生年すら曖昧ですからね)