尼子勝久 の検索結果:
…主として入ったのが、尼子勝久(あまご かつひさ)だ。彼はかつての中国二強の一角、尼子氏の分家の血を引いている。出家していた勝久は尼子が毛利に攻められて降伏した後に還俗。「願わくは我に七難八苦を与え給え」と願ったことで有名な山中幸盛(鹿介、鹿之助とも)に代表される尼子残党に担がれて、御家再興運動を行っていた。これに目をつけた秀吉が、「毛利氏に対抗するための盾」として尼子氏を再興させ、前線に配置した、というわけである。 もちろん、毛利氏としてはこれを放置できない。尼子氏が織田氏の…
…臣たちが出家していた尼子勝久(1553―78)を還俗させ、これを旗印として尼子再興の軍を挙げたことだった。その中心人物・山中幸盛(?―1578。鹿介の通称で有名)は亀井秀綱が遺した二人の娘のうち一人を自らの妻とし、もう一人を湯茲矩(とう・これのり、1557―1612)という尼子旧臣の若者に娶(めあわ)せた。そして、打ち続く毛利氏との戦いのなかで、この湯茲矩に亀井家を継ぐように命じたのである。のちの近世大名、津和野藩・亀井家はこの瞬間から出発したのだといってよい。 この時弱冠1…
…たが、僧になっていた尼子勝久を旗印として旧臣(「我に七難八苦を与えよ!」の山中鹿之助が特に有名)が結集、一時は出雲のかなりの部分を取り戻したほどである。この時の挙兵は毛利氏の圧迫によって失敗に終わったのだが、織田信長の援助を受けてたびたび復興運動を繰り広げた。そして1577年(天正5年)には播磨の上月城に入り、一応の復興を迎えたのである。 これは織田政権の中国方面司令官である羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が毛利から奪い取ったものであり、信長・秀吉としては尼子氏を対毛利の盾として使…