山名豊国 の検索結果:
…、本流は滅亡。しかし山名豊国(とよくに)が信長・秀吉・家康らに仕え、大名に満たないながら所領を与えられ、明治までのこった。なんと明治元年に大名になっている。→今作っている家康の名言を集めている本で紹介しているエピソードの中に、まさにこの山名豊国が出てくるものがある。大坂の陣の時で、家康は豊国の意見を聞こうと、彼を呼び寄せて老中と話をさせ、自分は隠れて聞いていた。そこで豊国は「正面から攻めれば勝てる」と言ったのだが、のちに家康がいうには「豊国は大坂城に人がいないと考えているよう…
…3度目の際には因幡の山名豊国が、それぞれ尼子再興軍に力を貸した。 もとを正せば、山名・尼子の両家は仇敵同士である。それでも幸盛ら尼子再興軍は山名の手を借り、山名もまた尼子再興軍に援助をした。これが戦国の世の習いというものであり、それほどまでに毛利の存在が脅威だった、ということでもあるのだ。こうした恩讐を超えての協力関係は、敵が弱まればそれまでである。尼子再興軍が出雲をしっかりと確保し、毛利の影響力を中国地方東部から排除したならば、今度は尼子・山名の争いが再燃したに違いない。そ…
…自身も山名氏の一族・山名豊国に殺され、城主は豊国となった。 かなのぶ | 鳥取城山の上丸の石垣[鳥取城] 中国地方の平定を命じられた秀吉が因幡を目指したのはそんな時だ。秀吉は三木城を開城させた後、さらに西へと目を向けた。備前の宇喜多直家は降伏を申し出て、但馬は秀吉の弟・秀長によって平定されていた。そこで秀吉の次なる標的が因幡となった。 1580年(天正8年)、秀吉の大軍が鳥取城を攻め、山下の町を焼き、別の城にいた人質を使って豊国に開城を迫った。人質の娘に槍がつきつけられ、豊国…