攻城団ブログ

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岡崎藩 の検索結果:

【家康の謎】家康の領地の石高はどのくらいあった?

…してのものだ。のちの岡崎藩の領地は5万石程度であった。まったくイコールではないだろうけれど、大きく違わなかったのではないか。さらに家康はまずもともと影響力の強い西三河を、続いて今川氏の勢力が衰えて混乱状態になっていた東三河を支配下に収め、三河統一を果たす。太閤検地によると三河は29万石。このくらいになると立派な大名と言ってよかろうが、西に隣接する織田信長の尾張は57万石だというから、正面向かって立ち向かうのは難しそうだ。家康が旧主君の今川を見限り、織田の同盟者となったのには、…

【江戸時代のお家騒動】水野騒動 抵抗勢力の重臣に“押込められた”若き名君の悲劇

…(寛延2年)【舞台】岡崎藩【藩主】水野忠辰【主要人物】水野忠辰 名臣・水野忠之の血を受け継ぐ少壮の君主と譜代家臣らの対立 1737年(元文2年)に家督を継いだ岡崎藩主・水野忠辰(ただとき)は、当時まだ16歳だった。忠辰の祖父は8代将軍・徳川吉宗に仕えていた水野忠之であり、彼は江戸幕府3大改革のひとつに数えられる享保の改革の前半期を指導した人物だ。忠之に可愛がられていた忠辰は、その改革にまつわる苦労話もよく聞かされていたらしく、その影響から藩政改革に意欲的だった。しかし重臣たち…

3.江戸幕府における譜代大名の役割

…めている。たとえば、岡崎藩は秀吉に仕えていた武将・田中吉政から、徳川家の重臣である本多家につながる本多康重へと交代した。大垣藩は関ヶ原の戦いで西軍に加わった伊藤家が取り潰され、岩津譜代の石川家が治めた。 また、近江佐和山に井伊直政、伊勢桑名に本多忠勝という、譜代大名の中でも特に重鎮とされる2人が配置された。佐和山は関ヶ原の戦いにおいて西軍の旗印だった石田三成の本拠地である。豊臣家はまだ健在で、そちらへの備えが必要だった。豊臣政権の重要人物だった三成の居城を押さえ、東軍の勝利を…

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