攻城団ブログ

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植田城 の検索結果:

【戦国軍師入門】秀吉の四国征伐――官兵衛の策略でスピード勝利

…る軍に対して、元親は植田城という小城を利用して撃退することを考えていた。この城は讚岐と阿波をつなげる重要な拠点だったが、同時に攻めにくい城でもあった。ここに敵を誘い込んで時間を稼がせ、その隙に自分の軍でもって後ろから攻め込み、挟撃する。それが彼の戦略だったのだ。 しかし讃岐を進撃する中で、あまりの敵の脆さと、彼らが植田城の方へ逃げていくことを不審に思った人物がいた。それが官兵衛だ。彼は元親の企みを看破すると植田城を攻めず、軍を海岸線に沿って移動させて阿波の秀長軍と合流、まずは…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】奮戦の舞台③――長宗我部元親の策略と、それを見抜いた黒田官兵衛・植田城

讃岐植田城(香川県高松市)は長宗我部元親が豊臣秀吉による四国攻めに備えて築いた城である。南に山を背負い、正面は谷で、非常に守りやすい作りになっていたようだ。さらに支城として由良山/池田の二城を築き、鉄壁の守りであるかに見えた。ところが、実際に豊臣軍が襲来すると、由良山と池田の兵は鉄砲の音を聞いただけで全く戦わずに城を明け渡し、あっさりと植田城に逃げ込んでしまう。これを怪しんだのが、豊臣軍の軍師・黒田官兵衛だ。長宗我部軍の行動には裏があるに違いない、と読んだのである。 実のとこ…

植田城 知将の読み合いが行われた戦

植田城は香川県高松市にあった城で、ここを舞台に二人の知将----黒田官兵衛と長宗我部元親が智略を巡らせ合った。1585年(天正13年)6月に豊臣秀吉がおこなった「四国征伐」のおり、土佐の戦国大名・長宗我部元親と秀吉の軍師・黒田官兵衛がぶつかっている。 長宗我部氏は土佐の国人であったが、当時の当主・元親に変わったころから勢力を拡大していった。1585年(天正13年)の春には四国を統一するにいたっている。秀吉は天下統一の妨げになると考え、伊予・讃岐を返上すれば、土佐・阿波を安堵す…

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