水野家 の検索結果:
…日 新宮城 御城印 水野家入部四〇〇年 新宮城(和歌山県新宮市) 阿須賀神社 社務所、新宮市観光協会(熊野新宮観光案内センター) 300円 印刷 2019年7月13日 三戸城 御城印 三戸城(青森県三戸町) 三戸町立歴史民俗資料館 300円 印刷 2019年7月13日 根城 御城印 根城(青森県八戸市) 史跡根城の広場本丸受付、八戸市博物館 300円 印刷 2019年7月13日 種里城 御城印 種里城(青森県鯵ヶ沢町種里町) 光信公の館、鰺ヶ沢町中央公民館 300円 印刷 縦…
…時代の人脈を活かす 水野家当主となった勝成は家康の元で、勇んで関ヶ原の戦いへ。本戦への参加を願いでるが許されず、大垣城への抑えとされた。しょうがないので大垣城を攻めることにした勝成は、放浪時代の人脈を生かして敵を寝返らせることに成功。その後も父の仇を含め数々の首級をあげる。この時の功績により日向守の官位を授かったが、日向守といえば裏切り者明智光秀。皆から避けられていた官位にも関わらず、勝成は喜んで日向守を名乗った。以後はその勇猛さから「鬼日向」という仇名で呼ばれることに。 そ…
…ちなみに、同じように水野家の所領がある新宮に移住した者たちもおり、彼らは「新宮与力」と呼ばれる。これは重要拠点である田辺・新宮を軍事的に強化するとともに、安藤・水野両家に対する牽制の意味があった、と考えられている。 幕末期の安藤家当主・安藤直裕(あんどう なおひろ)は安藤家とこの田辺与力との間に起きていた衝突を解決し、また幕末の混乱の中で必要になっていた海防強化を目指すために、田辺与力たちを安藤家の支配下に置こうと試みたのである。当然、田辺与力たちは紀伊藩の直臣から陪臣に落と…
…と考えられている。 水野家は清和源氏の多田満政の流れで、尾張・三河にまたがる勢力を有する国人である。家康の母・於大の方がこの家の出身であり、水野家は織田信長についたことから、織田・徳川の間を取り持つ役を果たした。この一族のうち、於大の方の弟・忠分の子・重仲(つまり、母方の従兄弟にあたる)は幼いうちから家康のそばに仕え、やがて頼宣の後見役を命じられることになる。 水野一族は彼らのほかにも幕府内に多く存在したこと、そしてもとは松平(徳川)と同格の国人であり名門という意識があったこ…
水陸の要衝・知多半島 水野氏は尾張国(愛知県)の南に突き出る知多半島北部を中心に勢力を持った国衆である。源頼朝に仕えた2代重清が、春日井郡山田庄水野(愛知県瀬戸市)に移ったことがその名の由来であるという。戦国乱世においては三河国(愛知県)西部の刈谷(同刈谷市)に進出してここを拠点とする一方、知多半島の南部にも進出、勢力拡大に努めている。この時期の知多半島には支配者というべき勢力がおらず、中小勢力による群雄割拠状態になっていた。 といっても、知多半島が価値のない場所だった、とい…
…藩権力の集中である。水野家は幕閣として活躍する藩主が多く、藩政は譜代の家臣らによって執り行われていた。そのため忠辰は藩主の権威を高めるべく、有能な人材の登用や勤務成績に応じた報酬など、譜代の家臣らに権力を集中しすぎないような策を取り入れたのである。 これまで専横を極めていた譜代の家臣らが、このような忠辰の方針に危機感を抱いた。もともと忠辰が積極的に藩政に関わることを快く思っていなかったこともあり、次第に両者の衝突が多くなっていく。忠辰は反発する家臣らに対して厳しい態度で挑み、…
…末は内藤家、山形藩は水野家が最後の藩主なので、正之は藩祖ではありません。多くの大名家は何度も移封を繰り返していますが、この場合も幕末に藩主をつとめていた藩だけが対象で、しかもその藩に入封した時点の藩主ではなく、その大名家の初代当主が藩祖となるようです。 大名家の成立自体が分家の話とか、過去に書いた「氏」と「家」の話とかも含めてややこしすぎますねと榎本先生に伝えたら「そもそも藩祖自体が後付け概念で、幕末から明治に流行った藩祖や有名な藩主を祀った神社からきているのです。」と、これ…