清水宗治 の検索結果:
…孤立させ、また城主の清水宗治の元に官兵衛を派遣して裏切りを持ちかけてみたが、なかなか上手くいかない。 そこで官兵衛が提案したのが水攻めだった。というのも、この城は沼や池によって取り囲まれた平城で、城に行くためには数本の道しかなかった。これは守るのにも向いていたが、同時に周囲の川を増水させれば簡単に水浸しにできるということでもあった。 こうして工事が始まった。現地の農民たちに法外な額の給金を与えて突貫工事をさせ、農業のための溜池工事の技術が駆使され、川は11日で堰き止め終わる。…
…死後はその娘婿である清水宗治が毛利氏に取り立てられて新たな城主となった。毛利氏は備中と備前の国境に七つの城を連ねて防衛ラインを敷いた。これが「境目七城」と呼ばれるもので、高松城はその中のひとつである。羽柴(豊臣)秀吉の中国侵攻におけるクライマックスの舞台となり、長い戦いの末に開城。備前の字喜多氏の武将がこの城に入っている。この時に城は大きな改築が施され、さらに関ヶ原の戦いののちにも整備された形跡がある。 さて、鳥取城を攻め落としていよいよ中国西部へ侵攻した秀吉の前に立ちふさが…
…。備中高松城の城主、清水宗治のケースがまさにそうであった。 この人はもともと高松城主だった石川氏の家臣だったのが、主家の内紛に乗じる形で自らがその地位を奪ってしまい、やがて毛利支配下に収まったという経歴の持ち主であった。備中と備前の国境を守る重要な位置にあった高松城をそのまま任せられた。この城は国境線上に存在するほかの城とあわせて「境目七城」と呼ばれたが、多くの城が毛利の命によって新しい城主と入れ替えられたのに宗治はそのままだったというところに、毛利家中における彼の評価を推測…
…0年)、当時の城主は清水宗治である。彼は元々、備中国賀陽郡幸山にいて、築城した久孝の娘を妻にしていた。久孝の没後、他の候補者を倒して城主となっている。その後、安芸の大名・毛利氏が備中に進出すると、その支配下に入った。 だが、この地方を狙っていたのは毛利氏だけではない。尾張の織田信長も支配下に収めようともくろんでいたのである。信長は各地の攻略を配下の武将に任せており、中国地方を担当したのが羽柴秀吉だった。秀吉はここに至るまでに現在でいう兵庫から鳥取にかけて、さらに淡路などを平定…