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【戦国軍師入門】秀吉の中国攻め――「両兵衛」による3つの城攻め

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榎本秋の戦国軍師入門

豊臣秀吉(木下藤吉郎・羽柴秀吉)といえば、「両兵衛」と呼ばれる名軍師2人をその配下としていたことで有名だ。
しかし、この両兵衛……すでに「稲葉山城乗っ取り」で紹介した竹中半兵衛と、のちに秀吉に警戒された黒田官兵衛の2人が共に秀吉の配下にいた時期がごく短かったことはあまり知られていない。半兵衛は秀吉が織田信長の命で中国地方を攻撃している際に病に倒れており、一方の官兵衛が秀吉の配下に加わったのは、まさにその中国攻めの中でのことだったからだ。

この戦いの中で秀吉は幾つもの強固な名城・堅城を相手取り、見事な策略によってそれらを陥落させている。そのために「城攻めの名人」という異名で呼ばれてもいるのだが、実はそうした策は半兵衛や官兵衛が考えたものだ、という説がある。

そこでここではその説を信じ、2人の名軍師の策略による3つの城攻めを見ていくことにしよう。この3つのケースに共通しているのは、味方に被害の少ない作戦をとっていることだ。
ここで取り上げる以外にも中国攻めでは、裏切り工作や小勢力の自軍への引き入れなどを積極的に行っている。秀吉は「無駄な殺しをしない」武将として評判を取ったのだが、そこには軍師たちの活躍があったのだ。

まず「三木城の干殺し」から紹介する。
秀吉の中国侵略は現地の案内や諸勢力の説得などの官兵衛の協力もあって順調に進み、但馬(現在の兵庫県北部)を平定したところで一度戻って信長に報告していた。ところがこの隙に、一度信長に帰順したはずの播磨(現在の兵庫県西部)三木城の別所長治が1578年(天正6年)に毛利側に寝返り、他の勢力にも働きかけて反旗を翻す。

秀吉はすぐに播磨に戻って三木城を攻めるが、この戦いはかなり長く続くことになった。この城が播磨一の堅城と呼ばれる堅固な城であったため、まず周囲の城を落としていく作戦に出たのだ。
そうこうしているうちに、秀吉が落とした後、尼子家の残党を立てこもらせていた但馬の上月城が毛利家に攻められたため、こちらを守るために一度兵を退く。しかし、結局上月城は放棄することになり、秀吉軍は、また三木城を取り囲み、さらに他の城を落として孤立させる作戦に戻る。

ところが、またしてもトラブルが発生する。包囲軍に参加していた荒木村重が勝手に軍を戻し、あまつさえ反旗を翻してしまったのだ。この反乱はなんと1年にも及び、説得に赴いた官兵衛が捕らえられるという事件も起きた。
結局、三木城を落とすまでには2年の年月がかかった。この時に秀吉が取った策が兵糧攻めだ。周囲の城を落として孤立させ包囲することで、食糧補給をできなくしたのだ。三木城内の兵士は完全に餓えてしまい、草の根や木の皮を蓄って餓えをしのぐしかなくなり、ついには降伏に至ったのである。
これが「三木城の干殺し」で、この兵糧攻め作戦こそが三木城攻めの陣中で病没した半兵衛の最後の策であった。

次は「鳥取城の餓え殺し」だ。
どうにか但馬・播磨を平定した秀吉は、続いて1581年(天正9年)の6月末に鳥取城を標的とする。この時に城を守っていたのは毛利一族の吉川経家だった。彼は鳥取が豪雪地帯であることから、11月あたりまで時間を稼げばそれで十分秀吉を撤退させられると考えていたようだ。そして、鳥取城はそのくらいの時間を優に稼げる堅城のはずだった。けれど、その思惑は脆くも崩れる。

ここで秀吉は官兵衛の進言を聞き入れて再び兵糧攻めを試みたのだ。
この戦法は無理押しするより遥かに味方側の被害が少ないのだが、時間がかかるのが難点だ。実際、三木城攻めの際は様々なトラブルがあったとはいえ、2年の月日が必要だった。

それでも官兵衛と秀吉がこの作戦をとったのにはワケがあった。秀吉軍は実は城攻めを始めるより前に米を買い占めており、城の中の兵糧もすでに空に近かったのだ。ここでさらに兵糧攻めをされたのだから、鳥取城はひとたまりもない。
結局、城の兵から餓死者が続出したのが10月のこと。ついに経家は自刃して果て、城は明け渡された。この戦いは「鳥取城の飢え殺し」と呼ばれている。

最後に「高松城の水攻め」だ。
秀吉の中国方面攻撃、その最終局面となったのが1582年(天正10年)の備中(現在の岡山県南西部)の高松城攻めだった。秀吉はここでもまず周囲の城を切り取って高松城を孤立させ、また城主の清水宗治の元に官兵衛を派遣して裏切りを持ちかけてみたが、なかなか上手くいかない。

そこで官兵衛が提案したのが水攻めだった。というのも、この城は沼や池によって取り囲まれた平城で、城に行くためには数本の道しかなかった。これは守るのにも向いていたが、同時に周囲の川を増水させれば簡単に水浸しにできるということでもあった。

こうして工事が始まった。現地の農民たちに法外な額の給金を与えて突貫工事をさせ、農業のための溜池工事の技術が駆使され、川は11日で堰き止め終わる。しかもこの時がちょうど梅雨時であったために、溢れた濁流はすぐに城を水没させてしまった。これが「高松城の水攻め」だ。

どうにか本丸だけは残ったが、備蓄した食糧はすべて水没し、井戸も沈んだために水も泥水しか手に入らない。到着した毛利の援軍も秀吉軍に阻まれ、ついに講和の交渉が始まる。しかし、その条件で難航しているうちに京都より急報が秀吉の元に届く。それは本能寺で信長が殺されたことを知らせていた……。
こうして時代は次の局面へと大きく動いたのだ。

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