攻城団ブログ

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牧野家 の検索結果:

【殿様の左遷栄転物語】綱吉の独裁、牧野成貞

…らの家老であった。 牧野家は古代日本で活躍した政治家・武内宿禰の子孫とされ、三河守護の一色家に仕えていたのが家康に属するようになり、譜代の家臣として活躍。特に牧野康成は「徳川十七将」に数えられるほどの人物で、家康・秀忠といった初期の将軍たちから厚い信頼を受け、家康の「康」の字をもらっている。本家は幾度かの転封後に越後国長岡藩6万4千石に定着し、明治維新にいたった。 一方、康成の3男・儀成は寄合旗本として5千石を受け、その子の成貞は神田御殿の綱吉に仕えるようになった、というわけ…

7.寵臣の出世と末路

…ている。成貞の死後、牧野家は三河国吉田藩8万石、日向国延岡藩8万石、常陸国笠間藩8万石と転封している。。 間部詮房 間部詮房は6代将軍・家宣と7代将軍・家継のもとで側用人を勤めた人物だ。家宣は綱吉の甥であり、綱吉の養子になることで将軍家に入ることになった。詮房は家宣に仕える陪臣だったのだが、ここで直参となる。その後、家宣に取り立てられて側用人になるのは柳沢吉保とまったく同じパターンだ。最終的に詮房は老中次席の家格と、上野国高崎藩5万石の大名の座を手に入れる。ちなみに彼の父親は…

2.譜代家臣団の成立

…平定した際に服属した牧野家、戸田家、奥平家、菅沼家、設楽家、西郷家、鵜殿家はここに含まれる。その他に榊原家、松井家、高力家、伊奈家、天野家、安藤家、永井家、久世家、米津家、大岡家の名前が挙げられる。 駿河譜代 浜松を居城としてから、「関ヶ原の戦い」に至るまでの間に服属した譜代大名。岡崎譜代までが「三河譜代」として優位に立っていたため、やや格下と見られる向きもある。徳川家が勢力を拡大していく過程で服属したため、他の戦国大名の家臣だった者が多い。今川家に仕えていた井伊家や、武田家…

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