攻城団ブログ

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白地城 の検索結果:

【戦国軍師入門】秀吉の四国征伐――官兵衛の策略でスピード勝利

…はあった。彼は阿波の白地城(はくちじょう)に本拠を構え、海岸線沿いの防備を構えて秀吉軍を待ちかまえる。 こうして四国征伐軍は3方に分かれて進撃したわけだが、その中でも讚岐から侵攻する軍に対して、元親は植田城という小城を利用して撃退することを考えていた。この城は讚岐と阿波をつなげる重要な拠点だったが、同時に攻めにくい城でもあった。ここに敵を誘い込んで時間を稼がせ、その隙に自分の軍でもって後ろから攻め込み、挟撃する。それが彼の戦略だったのだ。 しかし讃岐を進撃する中で、あまりの敵…

【10大戦国大名の実力】長宗我部家③――九死に一生を得るものの

…四国中央部に位置する白地城を中心に、各地の城に兵を派遣して羽柴軍を食い止めようとしたが――さすがに多勢に無勢、一気に攻め込まれてしまった。結局、元親は秀吉に降伏。土佐一国の支配だけを許され、豊臣政権に組み込まれることになった。ここに長宗我部家勢力拡大の野心は潰えたのである。 しかも、長宗我部家の不運はこれに留まらなかった。1586年(天正14年)、秀吉の命を受けて九州討伐軍に参加したところ、戸次川の戦いで島津家に大敗。嫡男・信親が戦死してしまったのである。信親は武勇と才覚の双…

植田城 知将の読み合いが行われた戦

…戦を見破られては数で勝る秀吉側が圧倒的に有利になってくる。 その後、官兵衛らの隊は阿波へ向かい、秀長の隊と合流、別行動だった秀次も官兵衛の意見を聞いて阿波に来た。秀長は全軍を二隊にわけて、長宗我部氏の重臣が籠る一宮城(徳島県徳島市)、岩倉城(徳島県美馬市)への攻撃を行った。元親は阿波の西端にある白地城(徳島県三好市)で大軍を迎え討とうとしていたが、家臣の説得により講和を受け入れ、土佐一国を安堵された。土佐から始まり、四国一帯を手にした長宗我部氏の野望はこうして潰えたのだった。

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