攻城団ブログ

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稲葉正休 の検索結果:

【殿様の左遷栄転物語】第5章 地方から中央へ! 本社に栄転、成り上がる

…である若年寄であった稲葉正休(いなば まさやす)。なんと、正俊の従兄弟にあたる。 なぜ彼がこのような暴挙に及んだかはわからない。その場に居合わせた者たちが正休を取り囲んで殺害してしまったからだ。「綱吉の命を受け、権勢を誇って無礼の振る舞いが目立つ正俊を穏便に辞職させようとして拒否されたからだ」「綱吉の命令ではあるが、それは能に熱中する綱吉を正俊が諫めたからだ」、あるいは「真田家などと手を結んで謀反をたくらんでいたのだ」とも「淀川の治水をめぐって意見が対立したのだ」「失敗の揉み…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府5代・徳川綱吉――生類憐みの令を発した犬公方 1646年~1709年

…。江戸城内で若年寄・稲葉正休(いなば まさやす)に襲われ、殺されてしまったのである。幕府の重鎮同士であり、また親族関係にあった彼らがなぜこのような事態に至ったのかは不明だ。 治世の後半は側用人政治 正俊を失った綱吉は、館林藩時代からの側近である牧野成貞(まきの なりさだ)を「側用人」という新設の役職に置いた。彼が政治の一線から退くと、同じく昔からそばにいた柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)を側用人とし、重用した。この側用人は将軍と老中の間の連絡役のようなものであり、結果として両…

4.出世と譜代大名

…が江戸城内で若年寄・稲葉正休に殺害され、安全のために将軍の部屋と老中たちの部屋とが離されたため、側用人の存在が重要になった。将軍のすぐ近くに控えるため、側用人には将軍の寵愛を受けた人物が登用されることが多い。綱吉の時代の柳沢吉保、6代将軍・家宣と7代将軍・家継の時代の間部詮房、9代将軍・家重の時代の大岡忠光、10代将軍・家治の時代の田沼意次などが有名だ。彼らは将軍の威光を背に、絶大な権力を誇った。実際の政治を行なう老中たちに将軍の言葉を伝える役割だけに、側用人たちはやろうと思…

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