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【戦国時代の境界大名】井伊氏――大勢力の狭間で内紛と戦乱の危機を乗り越える

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譜代の名門、彦根藩井伊家

近江国(滋賀県)彦根藩の井伊家といえば、押しも押されもせぬ江戸幕府譜代の重鎮である。
通常、江戸幕府においては幕政にあずかる譜代大名はだいたい数万石程度で小領、時には数十万石に及ぶこともある外様大名は幕政に口を出すことを許されぬ、という形でバランスをとっていたとされる。にもかかわらず、井伊氏は彦根35万石の大領を与えられていた。幕臣最上位の職である大老を最も多く務めてきたこともあって異例の厚遇を与えられ、また発言力を備えてきたのが井伊氏であるといっていいだろう。

その近世大名井伊家の祖といえるのが、井伊直政(1561―1602)である。赤備え(武装を赤で揃えた部隊)の精鋭を率い、江戸幕府初代将軍・徳川家康のもとで数多くの軍功を立て、「徳川四天王」の誉れを受けた名将だ。彼の活躍があったればこそ、その後約250年にも及ぶ井伊家の栄光があった。

――さてこの井伊直政という男。彼を徳川生え抜きの武将であると思っている人はいないだろうか。
家康が天下統一にこぎつけた理由の一つとして、酒井・榊原・大久保・本多といった三河武士の活躍が語られることが多い。そのため、井伊もまた譜代の三河武士であると見られることが多いようだ。

しかし、そうではない。松平氏が徳川氏と姓を変えて三河(愛知県)から遠江・駿河(ともに静岡県)へと勢力を拡大し、また豊臣秀吉の命を受けて関東へ移るという流れのなかで、数多くの武士が徳川の支配下に入った。本書で紹介するなかでも水野・奥平などがそうであり、井伊直政もまた徳川の勢力拡大の過程でその家中に迎え入れられたものだった。
ただ、そのなかでも井伊氏、また直政の運命は群を抜いてドラマチックであった。しばし、その物語に付き合ってほしい。

井伊氏の内紛と受難

井伊氏はもともと遠江国引佐郡井伊谷(浜松市北区)に根付いた国衆であった。この地は三河との国境にほど近く、その地理的条件が後の井伊氏の運命を大きく左右することになる。
その祖をたどると平安時代の名門貴族・藤原冬嗣に行きつき、彼の末裔が国司に任ぜられて遠江国にやってきて、やがて井伊谷に定着したのが始まりであったという。

戦国乱世の遠江を制したのは、隣国駿河の大大名、今川氏だった。氏親の代に大きく勢力を伸ばし、その死で内紛が起きるも、氏親の子・義元が混乱を収めてさらなる勢力拡大に成功している。
ほかの遠江国人と同じく、井伊氏もこの頃に今川氏に恭順した。これが井伊直平(?―1563)の時だ。
彼の嫡男である直宗は天文11年(1542)に討ち死にしてしまったため、弟の直満(?―1544)が跡を継いだ。そのまま井伊宗家は直満及びその子・直親(?―1562?)の家系が続いていく予定になっていた。ところが、直宗の子である直盛(?―1560)に仕える小野和泉守政直という男がこれを不満に思い、盟主である今川義元に「直満は今川氏に逆らうつもりだ」と訴えてしまう。これを信じた義元は直満を呼び出し、ついにその命を奪うに至った。1544年(天文13年)のことだ。

境界大名が特定の盟主を持てば、外敵に攻められた際には援軍を期待することができるというメリットもあるが、後継者選定への介入など、なんらかの介入を受けるデメリットもある。最悪の場合、勢力内部の争いが介入への口実になるケースさえもあるわけだ。境界大名の不安定さを如実に表すエピソードといえよう。
ただ、大大名といえども、中小の境界大名たちの身内の事情にそうそうたやすく手を突っ込んでいいわけではない。やりすぎれば反感を買うからだ。

この時、殺された直満の子、直親は家臣の手によって救い出されており、しばらく匿われた。その後、小野和泉守が死ぬと直盛が直親を呼び戻し、義元の許しを得て自らの養子としている(『寛政重修諸家譜』)。このケースはむしろ、境界大名内部の争いに大大名が振り回されたケースであったのかもしれない。
やがて1560年(永禄3年)、遠江情勢に大きな変化が起きる。西の尾張を切り取るべく出陣した今川軍が「桶狭間の戦い」で信長率いる織田軍に一敗地にまみれ、義元が討ち死にしたのだ。

この戦いに井伊氏も加わっており、当主の直盛が戦死している。しかし、すぐにあの直親が立っているので、井伊一族にとって戦の傷そのものはたいしたことがなかったといっていいだろう。
最大の問題は、駿河・遠江・三河の三カ国をまとめていた今川氏の支配力が、桶狭間での大敗と義元の死を機に一気に緩んだことだ。義元の後を継いだ氏真に、広大な今川氏勢力範囲を取りまとめる器量はなく、まず最も遠い支配地である三河からタガが緩んでいく。松平元康(徳川家康)が、織田と手を組んで独立し、三河の諸国人は雪崩を打って松平(徳川) へと旗印を変えた。

その影響は当然ながら遠江へ及ぶ。国人たちが「このまま今川氏についていていいのか」と迷い始めていたのだ。悪いことに、井伊谷は遠江でも西のはずれの三河に近い位置にあり、こういうときには真っ先に疑われる立場にあった。
その後に起きたことは『寛政重修諸家譜』『井伊家伝記』『礎石伝』などの史料に、微妙な違いこそあれど大筋で統一する内容が記されている。

1562年(永禄5年)、井伊家家臣・小野但馬守(『井伊家伝記』によれば先の小野和泉守の息子とも)が氏真に「直親は織田や徳川と手を結ぼうとしている。直親に叛意あり」と訴えた。驚いた氏真はさっそく討伐の兵を向かわせようとしたが、直親と親しい家臣の制止もあって、すぐに攻めるのはやめた。
こうなると、直親としてはなんとしても申し開きをしなければならない。しかし自ら氏真のところへわずかな伴を連れて向かう道中、掛川城(静岡県掛川市)に差し掛かったところで、掛川城主・朝比奈泰朝の手勢に取り囲まれ、殺されてしまった。

はたして直親は本当に今川氏を裏切るつもりだったのか。また、彼を殺した泰朝は、確たる裏切りの証拠を持ったうえで氏真の命を受けて、あるいは独断で直親を殺したのか、それとも『寛政重修諸家譜』にある通り「直親は氏真を攻めるつもりだ」と考えて殺したのか(20人という手勢でそんなことができるはずもないが)。すべてが今となっては謎である。

謎の城主、井伊次郎直虎

このように、井伊氏は家中の内紛と周辺勢力の争いに巻き込まれたのが重なって、次々と当主を失ってしまった。本来なら直親の死後はその子である虎松(のちの直政)が継ぐ予定であったが、氏真が「やはり直親は謀反を企んでいたのか」と考えていたため、今川氏の手のものによって捕らえて殺される前に家臣の手で逃がされたのである。
虎松にはその後も数奇な運命が待っているが、ここではいったん触れない。目を向けるのは井伊谷のその後だ。

さすがの氏真も井伊氏そのものを滅ぼそうとはしなかったので、直親に代わる当主を用意することになった。そこで立てられたのが、「井伊次郎法師」と呼ばれていた人物だ。2017年(平成29年)大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公として覚えている人も多いだろう。
この人は戦死した直盛の子で、婚約者が死んだことをきっかけに出家していた。しかし、井伊宗家にはほかに後継ぎとなれる子がいなかったので、次郎法師を預かっていた井伊家の菩提寺・龍潭寺(浜松市北区)の南渓和尚(直宗・直満の弟)と直盛の未亡人が話し合い、次郎法師を井伊家当主に担ぎ上げた、と『井伊家伝記』は語っている。

出家した次郎法師は「井伊次郎直虎」を名乗って井伊谷を統治した。蜂前神社(浜松市北区)所蔵の文書に、「次郎直虎」の署名が残っている。
これだけ見れば、なにもおかしなことはないように思える。だが、じつはこのできごとは当時としても非常に希少な事態だった。というのも、次郎法師=井伊直虎は女だったからだ。

戦国乱世を見渡せば、男顔負けの活躍をした女性はいくらでもいる。豊臣秀吉糟糠(そうこう)の妻として彼の死後も大きな発言力を持った高台院(おね)。肥前(佐賀県ほか)の大名・龍造寺隆信の生母で、当主・隆信の戦死後は、家臣筋ながら英明な義子・鍋島直茂に龍造寺氏の命運を託した慶誾尼(けいぎんに)。伊達政宗の母で実家最上氏と伊達氏が争った際、興で戦場に押し掛け争いを止め、「鬼姫」と呼ばれた保春院(義姫)。

さらに、伝承と思しきものも含むが戦場に出た女武者の例もある。瀬戸内の女武者で、彼女が使ったとされる甲冑が残る大三島(今治市)の鶴姫。小説『のぼうの城』で有名になった、小田原攻めにおける忍城攻防戦で名を挙げた甲斐姫。
しかし、女の身で城主として武家の頭になった人物となると、ほとんど例がない。本書の遠山氏の項にはおつやの方という実質的な城主を務めた女性が登場する。しかし、彼女も「後継ぎである養子の代理人」として城を取りまとめていたにすぎない。
にもかかわらず、直虎は井伊家を継承し、井伊谷の領主として統治に働いた。これは、当主が盟主に謀反を疑われて殺されたという異常事態に加え、一族の重鎮が認めたこと、そしてなにより「次郎法師」「直虎」という男の名を名乗り、男としてふるまうことで問題を解決したのだろう。

その後、直虎がいつまで井伊谷を治めていたかははっきりとわからないが、井伊谷の帰趨については明確にわかっている。1568年(永禄11年)には家康が井伊谷三人衆と呼ばれる国人たちに導かれて遠江へ入り、今川氏真を追い落としているからだ。以後、遠江全体とともに井伊谷も徳川氏の支配下に入ったのである。
ただ、これで井伊谷をめぐる情勢が安定したわけではなかった。1572年(元亀3年)には、武田信玄の軍勢が遠江・三河・美濃(岐阜県)の三方向へ同時に侵攻を開始し、そのうち東三河を通って遠江へ抜ける道を進んだ山県昌景の一隊が井伊谷を通過している。この際、井伊谷三人衆や井伊氏は家康のいる浜松城(浜松市中区)へ避難したという。
その後も、武田・徳川の小競り合いのなかで井伊谷はたびたび武田の攻撃に晒され、これは1582年(天正10年)に武田氏が滅亡するまで続いたようだ。家康の本拠である浜松城に近いゆえの受難であったろうか。

直政の放浪と再興の兆し

さて、故郷の井伊谷が叔母・直虎の手で統治されている間、父・直親を殺されたあの虎松はどうしていたのか。今川氏の追手から隠れ、各地を転々としていたようである。
といっても、父が死んだときに若干2歳の虎松が自らの足と才覚で追手から逃げられたはずもない。親族らの手引きで守られていたわけだが、この流れには諸説がある。

『礎石伝』は「引馬の浄土寺(浜松市北区)に母ともども隠れ住んでいた」とし、『井伊家伝記』は「まず親類筋の新野左馬之助を頼ったが、左馬之助が討ち死にしてしまった。次に直虎の擁立にも関わった龍潭寺の南渓和尚のもとに身を寄せたが、ここは井伊家との関係が強すぎる。そこで、和尚の紹介で三河の鳳来寺(愛知県新城市)へ移った。その後、母が引馬の松下源太郎という男と再婚したため、虎松もその養子となる」と伝える。
この引馬の地で、1575年(天正3年)、虎松にとって運命の出会いがあった。引馬城から浜松城と名を改められたこの地の城の領主、徳川家康が鷹狩りに出た際、虎松に目を止めたのである。

この出会いを『藩翰譜』『徳川実紀』はまったく偶然に出会ったかのように書いているが、『井伊家伝記』は松下源太郎・南渓和尚といった後援者たちによる働きかけがあったうえで、虎松は仕官のために家康の元へ向かったのだと記している。いくらなんでも、大名との出会いをただの運であったことにするのは無理があるので、後者の説の方が信憑性が高いといえよう。
ちなみに、やはり『井伊家伝記』によれば、虎松が家康に会うにあたって、直虎とその母が小袖を与えたというから、井伊氏からも陰に日向に支援はあったものと思われる。

そうして引き合わされた虎松を、家康は大いに気に入り、寵愛した。すぐさま井伊谷の旧領を虎松に継承させ、2千石の所領を与えたというのだから相当だ。
ちなみに、前述の直虎と虎松の間には義母・養子の関係が成立しているが、この頃のことと思われる。
家康のもとで「井伊万千代」、さらに元服して「井伊直政」と名乗るようになった虎松は、本多忠勝や榊原康政といった譜代の武将とともに徳川軍の先鋒を預かるようになり、やがてこの二人に酒井忠次を加えた四人が「徳川四天王」と呼ばれるようになっていくのだ。

あまりの家康による寵愛ぶりに、小瀬甫庵の『甫庵太閤記』をはじめとして家康・直政の男色関係を疑う声は強い。寵童が側近として出世するのは当時としては別に珍しいことではないが、特別な証拠があっての説ではないようだ。
それよりも、煎本増夫の『幕藩体制成立史の研究』の説の方に説得力があるようだ。これは『井伊年譜』の「徳川家康の正室・築山殿の母は通説では今川氏の重臣・関口親永の妻で今川義元の妹といわれているが、実際には義元の妻で井伊直平の娘だった」という記述を元に、この頃すでに築山殿との間に生まれた嫡男の信康を失っていた家康が、息子代わりに寵愛したのではないか、というものである。本項の冒頭に記したような井伊家の優過ぶりを考えるに、なかなか信憑性のある指摘といえよう。

また、井伊氏の優遇は、このような直政個人への寵愛・優遇という視点だけでなく、「相対的に松平一族や代々仕えてきた譜代の家臣団の力を弱めようとした」点でも見るべきだろう。
親族や譜代の家臣は忠誠心の強さから有用な戦力だが、大大名となっていくなかであまり昔からのつながりを主張されては具合が悪い。安定した支配をしようと思ったら、昔からの家臣と新たな家臣のバランスを取りつつ、一番力が強いのは本家、という形を取るようにしなければならない。
そこで家康は井伊直政という若武者を優遇することで、三河以来の家臣団とのバランスを取ろうとしたのではないか、と考えられるわけだ。

その後の井伊氏

最後に、直政と井伊氏の活躍を追いかけてみよう。
直政の初陣は1576年(天正4年)というから、まだ万千代と呼ばれていた時のことだ。武田勝頼との戦いに出陣している。その後もたびたび戦いに出て軍功を上げ、「本能寺の変」で織田信長が倒れた際には、堺(大阪府堺市)にいた家康の伴をして東海地方への脱出――いわゆる「神君伊賀越え」を成功させている。

その後も「小牧・長久手の戦い」、上田城(長野県上田市)の真田昌幸攻め、小田原攻めといった家康にとって主要な戦いにはことごとく参加した。とくに天下分け目の「関ヶ原の戦い」においては敵中突破を試みる島津軍と戦い、島津豊久を討ち取っている。
また、家康は宿敵であった武田氏滅亡の際、旧武田家の家臣団を自家に吸収したのだが、その武田の旧臣のかなりの部分を直政の支配下においている。本項冒頭で紹介したいわゆる「井伊の赤備え」も、こうした武田軍団の吸収のなかで、武田の重臣・山県昌景の赤備えを取り込むことで構成されたものである。

戦場での活躍ばかりではない。北条氏との交渉、秀吉との謁見、また家康が朝鮮出兵で関東を留守にした際には江戸留守居役を務めるなど、外交・内政にもその才覚を示した。「関ヶ原の戦い」が終わった後、西軍の名目上の総大将である毛利輝元が降伏するよう導くなどの後始末での活躍は特記すべきであろう。
これらの功績を受けて、井伊氏の所領は家康の関東転封に際して上野(群馬県)箕輪12万石に、さらに関ヶ原戦後に近江佐和山18万石(後代の加増で35万石に)と大領を与えられた。その後、直政自身は「関ヶ原の戦い」での傷が悪化して間もなく亡くなるも、井伊家は譜代大名のなかでも群を抜いた名門としてその存在を示し続けることになる。

末裔のなかでもとくにその名を知られるのは、幕末の井伊直弼であろう。内においては実子の望めない13代将軍・徳川家定の後継者問題、外に対しては諸外国による開国・通商要求という内憂外患の時代において、大老となった直弼は強権によって難問の乗り越えを図ったが、桜田門外の変によって凶刃に倒れた。幕末の悲劇と混乱を決定づけたできごとである。
井伊家はこの一件で改易も十分ありえたが、そうなれば絶大な混乱となったことも間違いなく、幕閣は「所領10万石を削って25万石とする」処罰でことを収めた。以後、井伊家は幕末の動乱においてさほどの存在感を示すこともなく、明治維新を迎えている。

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