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攻城団テレビで「復活大名」について話をしました

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2月に南部氏の動画を公開してからまた日があいてしまいましたが、攻城団テレビに新しい動画を公開しました。
今回は関ヶ原の戦いで西軍についたことで改易となったものの、江戸時代に見事大名として返り咲いた「復活大名」について榎本先生に教えてもらいました。
ぜひご覧ください。


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そもそも改易とは

本来の意味は「改め易(か)える」という職務交替以上の意味はなかったそうです。
ただ現代社会でも栄転もあれば左遷や降格、あるいは解雇もあるわけで、職務が変わる際に無職になることもあり、次第に職務を奪う刑罰のニュアンスが含まれていったとか。
鎌倉時代、室町時代には地頭や守護を交代させた際、処罰的なニュアンスを含みながら「改易」という言葉が使われました。交代に伴い所領もセットで没収され、江戸時代的な意味合いに近づいていく。

その江戸時代には「主君との主従関係を断ち切られ、武士としての身分を取り上げられ、家屋敷・与えられていた領地も奪われる」という意味になります。
職務どころか、主君(この場合は幕府)との関係が終わり、家が取り潰されるという感じで、ぼくらがイメージする「改易」はこんなイメージですよね。
ただこの際も没収の対象は幕府から与えられた所領や屋敷などであり、家宝など私的財産は含まれませんでした(そりゃそうか)。

大名家が改易になるパターンはいくつかありますが、無嗣断絶のように本人が死亡したケースはさておき、なんらかの罪を問われての改易の場合は以下のような処罰が大名本人に対して課されます。

  • 蟄居(屋敷の門を閉じ、さらに一室に籠って出てこないようにさせられる。同種の刑罰として「閉門」もあるが、これは期限がある)
  • 配流(配流先に流される。同種の刑罰として「預け(預かり)」という他の大名などに預けられるものがあり、こっちが行われるケースも)
  • 切腹(特に大きな失敗をしたケースなどで見られる。超有名どころだと元禄赤穂事件の浅野内匠頭が本人切腹&家は改易)

今回は関ヶ原の戦いの戦後処理で改易となったふたりの大名を取り上げて、彼らがどのように大名として復活を遂げたのかを紹介します。

case.立花宗茂

立花宗茂といえば「西国無双」のキャッチフレーズで有名ですね。これは豊臣秀吉が「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と並び称したのが元ネタらしいですが、「信長の野望」でもトップクラスの武力値を誇っています。
ちなみに最新作の「信長の野望・新生」では、本多忠勝が武勇98・統率85に対して、宗茂は武勇98・統率87と統率で上回っています。このふたりより武勇が高いのは上杉謙信(100)と真田信繁(99)だけです。

彼は大友氏の重臣である高橋紹運の嫡男でありながら、もうひとりの重臣・戸次鑑連(立花道雪)に気に入られて彼の娘・誾千代と結婚して婿養子に入り、戸次家の家督を継ぎます(のちに立花に改姓)。
なお、宗茂は名前を何度も変えていることでも有名な人で(大久保先生のマンガ「猛将妄想録」にもそんなネタがあります)宗茂と名乗ったのは晩年なのですが、ややこしいので動画も記事も宗茂で統一しています。

宗茂は秀吉の九州征伐(島津討伐)で活躍したので、大友氏から独立した直臣大名として取り立てられます。その後は豊臣大名として朝鮮出兵などにも参加したものの、関ヶ原の戦いでは西軍に与したため改易となりました。
西軍についた理由は諸説あるようですが、義兄弟だった小早川秀包との関係からというのが説得力がありそうです。

そんな宗茂の復活への人物相関図です。

まず『徳川実紀』によれば「この時黒田 加藤等 みづからの勤賞にかへて 宗茂が事なげき申ければ その罪はゆるされて」とあるように、黒田長政や加藤清正が関ヶ原の勝利で得た恩賞と引き換えに宗茂の助命嘆願を申し出たとか。
清正は戦前にも宗茂を東軍に誘ったと言われていて、九州に所領のあった大名同士、交流があったのでしょう。なにより朝鮮出兵の際に死線をくぐった仲間として深い関係だったのだと思います。

じっさい改易になった宗茂はしばらく加藤家領内にいたそうです(その後、京に出て浪人生活)。無職になった立花家の家臣団も加藤家が引き受けたそうで、所領が拡大して人材を求めていた背景があるにせよ、清正と宗茂の絆を感じさせます。

加賀の前田利長から「10万石で仕えないか」と誘われもしたそうですが、これは断っています。直臣大名にこだわったのか、柳川復帰を優先したのかわかりませんが、ここで諦めなかったからこそ復活できたわけですね。

その後、1603年(慶長8年)あるいは1606年(慶長11年)に江戸へ出て、本多正信の手引きを受けて、将軍・徳川秀忠に謁見したところから復権が始まります。
まずは5千石で旗本の書院番頭となり、さらに陸奥棚倉藩1万石の大名として見事復活。加藤家に預けられていた旧家臣団の一部も呼び寄せたようです。
さらに大坂の陣を経て1620年(元和6年)、念願の旧領・筑後柳川に復帰しました。なぜこのような人事が行われたかはわからないのですが、よほど秀忠に気に入られていたのでしょう。

case.丹羽長重

次は丹羽長重です。長重は「米五郎左」と評された織田信長の重臣・丹羽長秀の嫡男で、本能寺の変のあとは父とともに秀吉に味方しています。
その結果、丹羽家は越前国・若狭国・加賀国2郡あわせて123万石という大大名になり、長重は父の死後にそれをまるまる相続したのですが、15歳だったこともあってか秀吉に所領を召し上げられ若狭1国15万石のみになります。この背景には急拡大して人材不足だった秀吉としては、優秀な丹羽家の家臣団を一気に引き抜きたかったという思惑もあったのかなというのが榎本先生の見解でした。
じっさい長束正家や戸田勝成など豊臣政権で活躍した元丹羽家の人材が多数いますからね。『信長公記』の著者で知られる太田牛一もこのとき秀吉の家臣になっています。

さらに(宗茂が独立大名として取り立てられた)九州征伐後に若狭国も取り上げられ、加賀松任4万石の小大名に成り下がります。秀吉が丹羽氏の勢力を削ぐため、言いがかりをつけて所領没収をおこなったと言われていますが、おそらくそうなのでしょう。
ただ長重は秀吉に心底嫌われていたわけではなく、豊臣姓を下賜されてますし、小田原征伐後には加賀小松12万石に加増移封され、それなりの大名に復活しています。

そんな長重もやはり関ヶ原の戦いでは西軍に属しています。
これは榎本先生によれば「判断ミスが多かった」らしく、大谷吉継について前田利長と戦うことになり、その流れで西軍に参加ということのようです。
ともあれ長重も戦後に改易となってしまいます。

そんな長重の復活への人物相関図です。

まず利長が元織田家臣の子という立場から長重を擁護したという話があります。一方で『寛政重脩諸家譜』には(和睦したのに)自分だけ罰を受けたのは利長の讒言によるものだと疑い腹を立てた長重は自ら城を去って江戸で蟄居したと書かれているそうです。
ただ宗茂のように京ではなく、徳川政権の中心である江戸へ向かうあたりに幕府からもそれほど危険視されていなかったのかもしれません。
事実、1603年(慶長8年)には常陸古渡藩1万石の大名として復活しています。宗茂よりだいぶ早いですね。

なお『名将言行録』には徳川秀忠と義兄弟だったという話も書いてあるそうですが、さすがにそれは言いすぎだとしても前田利長と同様、ジュニア同士の交流はあったのだと思います。
『寛政重脩諸家譜』にも「秀忠による擁護があった」と書いてあるので、丹羽家の認識(主張)としてもそのようです。

その後、大坂の陣で活躍して棚倉藩5万石に、さらに陸奥白河藩10万石余ヘとたびたび加増・転封を受けています。
棚倉藩は宗茂のときにも出てきましたが、丹羽家のあとは内藤家をはじめ譜代大名しか入っていなくて、また彼らの転封先が館林藩や川越藩など「いいところ」なんですよね。榎本先生に聞いたら、もともと棚倉藩は山間の懲罰的な移封先で、ここで結果を出したから栄転できているのだろうとのことでした。

棚倉藩の歴代藩主はこの動画を撮るために整理したのでご覧ください。

kojodan.jp

その他の復活大名

動画ではこのほか、木下勝俊、滝川雄利、岩城貞隆、来島長親を紹介しています。
さすがに10万石をこえる大大名として復活できたのは宗茂と長重くらいなのですが、いちおう関ヶ原の戦後処理で改易されたものの大名として復活できた人はほかにもいたということでぜひご覧ください。
木下勝俊はいちおう東軍なのに敵前逃亡して改易となり、一度復活したのに幕府の命令違反をして二度目の改易になっているユニークな大名です。

まとめ

立花宗茂、丹羽長重のふたりに共通点はあるのか、復活の鍵はなんだったのかを榎本先生といっしょに考えてみたのですが、まず共通点としてはふたりとも秀忠の御伽衆をつとめている点があげられます。つまり将軍のそばに近づけるほど信用を得ていたということです。

あとは関ヶ原の戦いの特殊性があるのかなと思いました。
榎本先生は「主導的に西軍についたわけじゃない(流れでそうなっただけで家康に歯向かいたかったわけじゃない)」とおっしゃってましたが、しょせんコップの中の嵐というか、豊臣政権内部の派閥抗争でしかなかったので関ヶ原の戦後処理では西軍でも死罪になったのは数名だけで、ほとんどは穏便にすませています。
家康としてはそれぞれの立場で西軍につかざるをえなかった事情なども考慮していたのかもしれません。

なので禊が済めば復活のチャンスはあったのでしょうが、それでも幕府にとって有用とみなされなければ無理な話で、宗茂や長重はその人格や能力を評価されたのでしょう。
宗茂の復活のきっかけをつくったのは本多正信ですが、ほかにも岩城貞隆や来島長親が正信のコネを使って大名として復活しており、じっさいに大名として復活を認めたのは将軍の秀忠だとしても、将軍の側近である正信がキーマンだったことがよくわかります。

そうした幕府中枢とのコネクションに加えて、今回おもしろいなと思ったのが、友情とも言えるような同世代の仲間の存在でした。
宗茂は黒田長政や加藤清正ら朝鮮出兵時の戦友が庇い立てしてくれてましたし、長重も前田利長や徳川秀忠らジュニア会の人脈が効いているはずです(庇った話には誇張や脚色も含まれていると思いますけどね)。

戦国時代とちがい、とくに江戸時代の近世大名に求められるのは調整力やコミュニケーション能力であって、ふたりにはそうした能力があったのでしょう。
御伽衆をつとめていることからも昨今注目されている言語化能力にも秀でていたのだと思います。どんなに経験を積んでいても話の要領を得ない人をそばに置かないですからね。

ぼくは改易や移封などに象徴される、江戸時代のこういう政治的な部分がとてもおもしろいなと思うのですが、また別のテーマで企画を立ててみたいと思います。

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