攻城団ブログ

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丹羽家 の検索結果:

【殿様の左遷栄転物語】「したたかな男」藤堂高虎の息子 藤堂高吉

…そも仙丸は羽柴秀吉が丹羽家を取り込む戦略の一環として弟の秀長のところに養子として貰われたのだ。しかし、この時にはすでに丹羽家は秀吉の支配下にあったので、彼の価値は下がっていて、すでに秀長の後継者の座からは追われていた。そこに高虎からの声がかかったので、彼の才覚を気に入っていた秀長以外にとっては誰もが満足する結果のはずだった――少なくとも、この時点では。 こうして高虎の養子となった仙丸は、養父となった高虎から一字を貫って高吉と名乗った。14歳で朝鮮出兵に出陣し、秀吉が没した後は…

【殿様の左遷栄転物語】米五郎左の息子 丹羽長重

…立てられ、その多くは丹羽家よりも石高が大きくなったのだから、これはたまらない。この背景としては、若さゆえに家臣団を制御できない長重自身にも問題があっただろうが、それ以上に、大大名である丹羽家をたやすく潰すことによって自らの権力を誇示したい秀吉の思惑があった、と考えるのが妥当であろう。かつての上役であり、また多分に恩もある長秀は厚遇する価値はあっても、その息子はそうではない。だから、早いうちに叩き潰して将来の禍根を断ち、優秀な家臣団を自分のもとに取り込み(秀吉は譜代の家臣を持た…

2.譜代家臣団の成立

…家、土岐家、稲垣家、丹羽家、三浦家、遠山家、加々爪家、内田家、小堀家、西郷家、奥田家、脇坂家、京極家、毛利家、山口家、柳生家、堀家、蜂須賀家、増山家などが含まれる。 これらとは別に松平家の一門がある。実は譜代大名として数えられる松平一族も少なからず存在したのだ。 松平一門 徳川を名乗ることができたのは、基本的に御三家と御三卿だけで、それ以外の一門――および元々松平を名乗っていた十八松平(十四松平)――はすべて松平姓を使っていた。また、徳川直系の保科家や越智家、紀伊徳川の一族に…

2.織豊政権期のパラダイム転換

…臣であった丹羽長秀の丹羽家は、長秀の生前には秀吉に厚遇されたものの、その死後には厳しい扱いを受け、大いに所領を削られてしまっている。織田政権の関東方面司令官であった滝川一益は、関東を追われたのちにしばらく秀吉と敵対していたが、やがて降伏。その後は秀吉の支配下に入ったものの、小牧長久手の戦いにおいて徳川家康にあっさり敗れたことから秀吉の怒りを買い、以後は出家・蟄居して余生を過ごすことになった。同じく秀吉と敵対した佐々成政も最終的には降伏し、その後羽柴姓と要地である肥後のほとんど…

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