攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

丹羽長重 の検索結果:

【殿様の左遷栄転物語】「したたかな男」藤堂高虎の息子 藤堂高吉

…た。第1章で紹介した丹羽長重の弟にあたる。仙丸はもともとこの時期の高虎の主君である羽柴秀長の養子で、秀長は優秀な仙丸をとても気に入っていた。しかし高虎が仙丸を養子にくれるよう秀吉に頼み込んだために、手放さなければならなくなったのである。 高虎が仙丸を所望した理由としては、彼を通じて秀吉に取り入ろうとしたためと考えられている。そもそも仙丸は羽柴秀吉が丹羽家を取り込む戦略の一環として弟の秀長のところに養子として貰われたのだ。しかし、この時にはすでに丹羽家は秀吉の支配下にあったので…

【殿様の左遷栄転物語】15年を経て再興 岩城貞隆

立花宗茂と丹羽長重はそれぞれに苦労をして、お家再興にこぎつけたわけだが、いってしまえば所詮は数年の浪人生活を過ごしたに過ぎない、といえる。このふたりはもともと豊臣政権の中枢に近いところにいて、親交のある大名も多く、徳川家康・秀忠といった将軍たちの覚えもめでたかったから、再興活動もやりやすいところがあったのかもしれない。 実は、彼ら以上に苦労し、改易から15年を経てようやく再興にこぎつけた苦労人大名がいる。その名は、岩城貞隆(いわき さだたか)。岩城家は平繁盛(平安時代に関東で…

【殿様の左遷栄転物語】米五郎左の息子 丹羽長重

…選ばれた武将の中に、丹羽長重という人物がいる。彼もまた関ヶ原の戦いで改易され、その後再興を遂げた大名だ。彼の生涯はまさに苦難の連続であった。長重の父・丹羽長秀は織田信長に仕え、織田家臣団の中でも目立って活躍したうちのひとりだ。その血筋は鎌倉時代頃に関東で大きな勢力を誇った武蔵七党のひとつ、「児玉党」にさかのぼる。 長秀は、通称の五郎左衛門から「米五郎左」(米は地味だが欠かせないもの=長秀もまた合戦で欠かせない、の意)と称されるような才覚のある人物だった。豊臣秀吉が若い頃に名乗…

【お城の基礎講座】79. 江戸時代の築城

…たようです。例えば、丹羽長重が寛永4年(1627年)から白河小峰城(しらかわこみねじょう)を建てました。また慶安元年(1648年)には浅野長政が赤穂城を着工しています。 丹羽長重によって建てられた白河小峰城 天守の建造は少ない 太平の世になり天守の建造は激減しました。例えば、江戸城の天守は三代将軍家光の頃に焼失してしまいましたが、それ以降再建されませんでした。大阪城や二条城でも天守が焼失した後は再び建てることはありませんでした。他の大名の居城であっても天守が焼失してしまった時…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する