攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

佐竹義宣 の検索結果:

【殿様の左遷栄転物語】政争で潰された大名② 宇都宮藩本多家

…り出羽国久保田藩主の佐竹義宣のもとへ身柄を預けられることになった。 事件はやがて物語ヘ この時、正純には「本丸の石垣を無断で改修したこと」「警護のために鉄砲を密かに買い込んだこと」「幕府の客分数名を始末したこと」という3つの罪状が突きつけられ、これを否定することができなかった。しかし、これらはすべて、秀忠を迎える準備を急ぐためだったのである。 これは明らかな罠であった。『徳川実紀』も「この人の罪たしかならず」としている。何らかの役目を与えて本拠地から離し、しかる後に処分を突き…

【殿様の左遷栄転物語】15年を経て再興 岩城貞隆

…よってではなく、兄・佐竹義宣に命令されてのことだったようなのである。北関東に54万石余を有する大大名であった義宣は、もともと親・三成派であった。したがって、関ヶ原の戦いに先立つ東軍の上杉征伐には参加せず、またいよいよ三成ら西軍が挙兵して家康から出陣要請が出ても、動こうとしなかった。 この時の兄・義宣の意図がどこにあったのか――西軍との密約があって機会を待っていたのか、両方に義理立てして戦わなかったのか、それともただただ迷っているうちに戦いが終わったのか――は判然としていないが…

【戦国時代の境界大名】相馬氏――奥州第一の実力者・伊達氏との抗争を戦い抜く

…も届いていた。義胤は佐竹義宣とともにその陣に駆け付け、遅参を責められたものの石田三成のとりなしがあって許された。北条氏滅亡後、秀吉は会津に入って奥州仕置に取り掛かった。秀吉に恭順しなかった諸大名は取り潰され、恭順したものは所領を安堵された。相馬氏は4万8700石を認められ、佐竹氏の与力大名(戦時に軍事指揮下に入る関係)として位置付けられている。 その後の相馬氏 こうして奥州の戦国時代は終わったが、相馬氏の苦難はもう少し続く。天下分け目の「関ヶ原の戦い」に相馬氏は出陣しなかった…

【江戸時代のお家騒動】佐竹騒動 銀札流通の失敗で藩内経済が大混乱

…保田藩は北関東の雄・佐竹義宣を藩祖とする。豊臣政権に服属して常陸・下野54万5800石の領土を認められていたが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで表面上は徳川家康に味方するような素振りを見せながらも、西軍に協力する動きもあったことから、戦後に領土を没収されて久保田藩20万5800石に移封となった。 その久保田藩では、七代藩主・義明の時代である1755年(宝暦5年)に銀札(藩内でしか出回らない紙幣。銀との交換が保証されている)の発行が行われている。頻発した災害に端を発する財…

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