攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

北畠顕家 の検索結果:

攻城団テレビで南部氏の歴史について話をしました

…と南部政長の兄弟が、北畠顕家の陸奥国下向に従って奥州へ入り、糠部(ぬかのぶ)郡八戸に根城を築きました。ただそれより前、鎌倉幕府滅亡以前に南部師行の弟・政長が新田義貞の軍に参陣した記録があることから、鎌倉末期には陸奥国内に所領を持っていた可能性が高いと考えられています。 北畠顕家(きたばたけ あきいえ)南北朝時代の公卿、武将。文保2年生まれ。北畠親房の長男。建武の新政下、16歳で陸奥守となる。鎮守府将軍となって足利尊氏を九州に敗走させる。建武5年、高師直軍に敗れ、和泉石津で戦死…

【10大戦国大名の実力】伊達家①――地方勢力の栄光と悲哀

…の当主が伊達行朝で、北畠顕家という南朝の有力人物に従って上洛し、足利尊氏を一度九州へ追い落とすのに貢献したという。最終的には北朝側に従ったようだが、東北の有力武家の一人として大きな活躍を見せた事は間違いないようだ。 室町時代になると伊達氏は幕府について鎌倉公方に敵対した。さて、この頃に活躍して「伊達氏中興の祖」とうたわれるのが伊達大膳大夫政宗という人物だ。そう、「政宗」という名前はこの先祖にあやかったものだったのである。そのため、私たちがよく知る戦国時代の政宗は、歴史書などに…

【クーデターで読み解く日本史】争いの発端となった二人が最後は共倒れ――観応の擾乱

…8年(延元3年)には北畠顕家(きたばたけ あきいえ)と新田義貞(にった よしさだ)という南朝方の有力な武将が相次いで倒れ、その翌年には後醍醐天皇自身も亡くなってしまった。これでは勢力が衰退していってしまうのも無理はない。 北朝と室町幕府にとっての問題は、外よりもむしろ内にあった。ここまで足利尊氏を強力にサポートしてきた弟・足利直義(あしかが ただよし)と、尊氏の側近である高師直(こう の もろなお)が対立するようになってしまったのである。これはそもそも当初の室町幕府が「軍事は…

【クーデターで読み解く日本史】南北朝時代の幕開けとなった大乱――延元の乱(建武の乱)

…方の有力な武将である北畠顕家(きたばたけ あきいえ)はこの時陸奥にいて、天皇の命を受けて尊氏打倒のために動き出していたのだが、到着の遅れていたこの軍勢がようやく京へやってきたのである。顕家と義貞、またゲリラ的戦術で鎌倉幕府打倒に活躍した楠木正成ら天皇方は、守るのに向いていない京にこもる尊氏らの軍勢を撃破、京より追い落とすのだ。 総大将である尊氏が3回も自害しようとしたというほどの劣勢の中、どうにか落ち延びた尊氏方は天皇方の追撃に晒されつつ西へ向かって敗走していく。この途中で尊…

【歴代征夷大将軍総覧】室町幕府二代・足利義詮――南北朝動乱を生き抜いた生涯 1330年~1367年

…建武4年)に南朝側の北畠顕家が挙兵すると、鎌倉方は武蔵での戦いに敗北し、すっかり意気消沈してしまう。彼らは義詮の前で「いったん安房や上総に撤退し、東国の情勢を見極めながら戦っていくべきではないか」などと評定を繰り広げていた。 そのとき、当時8歳の義詮が毅然と言葉を放った。「戦をすることがあれば必ずどちらか一方が負ける。負けをむやみに恐れて戦わずにいれば、関東の管領として鎌倉にいる自分が後で何を言われるかわからない。たとえ小勢であっても敵が来たなら戦い、かなわなければ討死するべ…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する