攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

南光坊天海 の検索結果:

【家康の謎】家康のブレーンにはどんな人たちがいたの?

…前を知られているのが南光坊天海(なんこうぼう てんかい)と金地院崇伝(こんちいん すうでん、以心崇伝)である。 天海は天台宗の僧侶で、高徳の人物としてよく知られていた。しかし、家康に見出されるまで、その前半生はよくわかっていない。そこから生まれたのが有名な「光秀=天海説」である。他にも将軍落胤説などもあるが、真相はわからない。間違いないのは、彼が足利学校の卒業者で占いや呪術などの知識にも長けていたこと、また口が達者で他宗派との議論に強かったことから家康に見出されたことだ。結果…

【家康の謎】家康が信仰していたのは何宗?

…僧侶として、天台宗の南光坊天海(なんこうぼう てんかい)と、禅宗の金地院崇伝(こんちいん すうでん)の二人がいた。特に、家康が天海から受けた影響は非常に大きなものがあり、彼との出会いを経て天台宗に傾倒するようになったようだ。 とはいえ、家康は全く浄土宗の信仰を捨ててしまったわけではないらしい。松平氏の元々の菩提寺が三河の大樹寺であることはすでに触れたが、江戸で家康の、そして徳川氏の菩提寺となったのは増上寺――その宗派もまた浄土宗である。また、家康は遺言において「葬式は増上寺で…

琵琶湖の水位低下で坂本城の石垣が出現

…ていたのでそれを見ていこうと。 news.kojodan.jp 反対側(京都側)の八瀬からはケーブルカーでのぼったことがあるのですが、坂本ケーブルに乗るのははじめてです。戦国BASARAとコラボしてて、車内アナウンスも声優さんがやってました。 展示室内はすべて撮影不可だったのですが、南光坊天海が着用したという甲冑がめちゃくちゃかっこよかったです。 200冊だか400冊だか限定の(すみません、メモするの忘れました)図録もまだ残ってたので無事購入できました。 kojodan.jp

「細川幽斎『古今伝授』と『天下統一』」参加レポート

…。家康は金地院崇伝、南光坊天海、林羅山といったブレーンを抱え、江戸幕府の法案作成などをおこなたとされますが、藤孝から室町幕府のマニュアルを受け取っていたことは知りませんでした。家康にとってみれば古今伝授よりも価値のあるマニュアルだったでしょうね。 そして藤孝が伝えた室町幕府のしきたりは江戸幕府で踏襲され、それが江戸時代265年の礎となるわけです。思えば足利義輝の奉公衆は義輝とともに討死したり、義昭とともに京を離れたりしたため、一定の権力を維持したまま江戸時代を迎えられたのは細…

明智光秀ゆかりの地おすすめ19選

…き延びて僧侶となり「南光坊天海」と名乗って徳川家康と再会し参謀になって徳川秀忠や家光にも影響を及ぼした」というものです。 とても面白いし興味がわきますが、実際には年齢を計算すると100歳を越えてしまうので有り得ないとする意見が多いようです。 こんなワクワクする説が出てくるほど実は魅力的な人物が明智光秀という人なのかもしれません。 もし光秀が信長を撃たなかったら信長の野心は拡大を続け、日本の歴史も大きく変わっていたかもしれません。 また明智光秀もここまで重要な歴史的人物になって…

【戦国を彩る名軍師たち】江戸幕府の宗教対策で活躍――南光坊天海

…人物が、今回紹介する南光坊天海である。フィクションで「正体は明智光秀」や「江戸を呪術的知識に基づいて結界都市にした人物」などとして登場することも多い怪しげな男だが、その実体はなんだったのか。意外と知られていない。 天海は陸奥の生まれで、名門・蘆名氏の一族であったとするのが通説である。若い頃は各地を放浪して修行し、またいくつかの寺で住持も務めた。家康と接点を持つようになったのは1607年(慶長12年)頃だ。この頃の家康は既に関ヶ原の戦いを終えて天下人となっていた。彼は征夷大将軍…

【サイン本プレゼントあり】「日本坊主列伝」のご紹介

…鎌倉時代以前の僧侶、南光坊天海や以心崇伝など江戸幕府のブレーンとなった僧侶たちが見事に並んでいますね。 1 古代~鎌倉 道鏡 行基 空海 蘆屋道満 頼豪 文覚 武蔵坊弁慶 常陸坊海尊 日蓮 2 室町~戦国 文観弘真 兼好法師 一休宗純 雪舟等楊 蓮如 太原雪斎 顕如 安国寺恵瓊 果心居士 曲直瀬道三 施薬院全宗 胤栄と胤舜 本因坊算砂 3 江戸 南光坊天海 以心崇伝 林羅山 教如 沢庵宗彭 天秀尼 列堂義仙 売茶翁 隆光 月照忍岡 武田物外 ひと足先に献本いただいたので、ぼく…

本能寺の変の謎(明智光秀による犯行なのか、黒幕がいるのか)

…。 このあたりから「南光坊天海は光秀だった」という説が生まれたりするんでしょうね。 明智光秀による焦慮説 本能寺の変の2年前、1580年(天正8年)には、佐久間信盛・林秀貞・安藤守就・丹羽氏勝といった歴代の重臣が大量追放されていることから、重臣でありながら織田氏譜代の家臣ではない新参者であり、信長に仕えた期間も十数年ときわめて短期間である光秀が将来を悲観し、保身のために謀叛を考えるようになったという説です。 また、この説は怨恨説や野望説などの背景としても用いられています。 明…

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