攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

南部家 の検索結果:

攻城団テレビで南部氏の歴史について話をしました

…。 南部晴政の登場と南部家の混乱 1539年(天文8年)、三戸南部氏の南部安政(やすまさ)が上洛し、時の将軍である足利義晴に拝謁して「晴」の一字をもらい、以後「晴政(はるまさ)」を名乗ります。この晴政は戦国大名としての南部氏を大きく発展させた人物でしたが、実子がいなかったため、叔父で一族内の有力者でもあった石川高信(いしかわたかのぶ)の子の信直(のぶなお)に娘を嫁がせて婿養子とします。 ここからは「あるある」ですが、その後に実子の晴継(はるつぐ)が誕生してしまうと信直は廃嫡(…

攻城団テレビで相撲の歴史について話をしました

…、中期以降には奥羽藩南部家、仙台藩伊達家(名儀のみ白石藩片倉家)、庄内藩酒井家、姫路藩酒井家、出雲藩松平家、鳥取藩池田家、阿波藩蜂須賀家、高松藩松平家、久留米藩有馬家、熊本藩細川家などがあります。 またこれらの藩がずっと力士のパトロンになっていたかというとそうでもなくて、あくまでも藩主のパーソナリティというか、相撲好きかどうかで決まったようです。戦乱もなく、江戸詰が基本の江戸大名にとって、趣味や道楽は暇つぶしの観点でも重要になりますが、その対象として茶道や華道と同じように相撲…

日本史における「変」と「乱」について対談しました

…者である九戸政実が、南部家当主の南部信直(なんぶ のぶなお)および奥州仕置を行う豊臣政権に対して起こした反乱。この乱が鎮圧されたことで秀吉の天下統一が完成 戦国時代 1599年(慶長4年) 庄内の乱 島津氏とその重臣である伊集院氏との争乱。島津氏家中最大の内乱であり、関ヶ原の戦いに島津氏が大軍を送れなかった原因とも 江戸時代 1637年(寛永14年)〜1638年(寛永15年) 島原の乱(島原・天草一揆) 圧政とキリシタン弾圧への不満を抱える領民が起こした反乱。原因をつくった島…

【殿様の左遷栄転物語】将軍のブレーン・新井白石

…のときに陸奥盛岡藩の南部家から「養子にもらいたい」「将来は千石を与えよう」と破格の申し出があったほどだが、これは利直が断っている。 その後、白石は文武両面で優れた才覚を発揮しながら成長してゆくも、父が土屋家の家督争いをめぐる内紛に巻き込まれる形で追放されてしまう。しかもこのときは「奉公構(ほうこうかまい、ほかの大名家がこの人物を雇うことを禁じる)」処分だったため再就職もできない有様であった。苦しい浪人生活の末、土屋家が改易となったため処分が解け、前述したように綱吉の初期政権を…

【殿様の左遷栄転物語】綱吉の独裁、牧野成貞

…氏の名門である盛岡藩南部家の分家筋にあたる。学問を好んで綱吉に厚遇されたというが、彼もまた側用人となってまもなくその職を辞した。理由は病気であるというが、「彼の手にできた瘡(できもの)を、綱吉が嫌ったから」とも伝わる。 このふたりは譜代であったり名門であったりしつつも幕閣の重職に就けるような家格ではなかった。さらにその後も外様大名家から側用人が選ばれており、従来幕政を独占していた名門譜代大名から政治を取り戻そうという綱吉の強い意志が感じられる。――が、結局のところ彼らはみな早…

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