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【殿様の左遷栄転物語】将軍のブレーン・新井白石

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神童・新井白石

家宣の将軍親政に大きな役目を果たした人物としてもうひとり、新井白石(白石は号で、名は君美)の存在も欠かせない。彼は儒学者として家宣の師を務めた人物であり、家宣の親政をブレーンとして強力にバックアップした。

白石自身が残した記録によると、新井家は清和源氏の新田家の流れを汲むとされる。
父・正済の代には上総国久留里藩主の土屋利直(つちや としなお)に仕えていた。利直は正済を深く信頼し、その子である白石をも寵愛した。3歳の頃から身近において「火の児」という愛称で呼んでいたらしいから、相当である。
この頃から白石の聡明さは際立っていたようで、6歳のときに陸奥盛岡藩の南部家から「養子にもらいたい」「将来は千石を与えよう」と破格の申し出があったほどだが、これは利直が断っている。

その後、白石は文武両面で優れた才覚を発揮しながら成長してゆくも、父が土屋家の家督争いをめぐる内紛に巻き込まれる形で追放されてしまう。しかもこのときは「奉公構(ほうこうかまい、ほかの大名家がこの人物を雇うことを禁じる)」処分だったため再就職もできない有様であった。
苦しい浪人生活の末、土屋家が改易となったため処分が解け、前述したように綱吉の初期政権を担当した大老・堀田正俊の家臣となる。白石は正俊を高く評価しており、彼から多大な影響を受けたらしい。

やがて堀田家からも離れた白石は、再びの浪人生活を経て、朱子学の師匠である木下順庵(きのした じゅんあん)に勧められて家宣のお抱え儒学者となった。
ちなみに、この時期の就職活動をめぐっては、ひとつ美談がある。実は、順庵が最初に白石へ持ちかけたのは、加賀国は前田家への出仕であった。前田家はいわずと知れた「加賀百万石」の大藩であり、また学問への傾倒が深い家でもあったから、これは学者としては垂涎の就職先であった。

ところが、これを聞きつけた同輩の中に加賀へ母を残している者がおり、白石に頭を下げて自分にその話を譲ってくれるよう頼んだ。白石はこれを快諾、その同輩は無事に前田家に仕えて、順庵は白石の心ばえを涙ながらに喜んだ、と伝わる。
このことは白石の人間性を示すエピソードでもあるが、同時にある種の「強運」を感じさせるものでもある。南部家の養子になっても、前田家の家臣(つまり、陪臣)になっても、その後の白石が残したような業績は決して実現できなかっただろうから。

学者・詩人としての功績

白石は甲府藩時代から幕府時代まで、19年にわたって家宣の師であり、また側近であったが、その間にほとんど欠かすことなく講義を続けたとされる。両者には強い結びつきがあり、白石が「家宣様ほどまじめな生徒はいない」といった意味の言葉を残しているのに対し、家宣のほうもわざわざ高い座から下り、姿勢を崩さないまじめな姿勢で講義を聞くことで応えたというほどである。

そんな白石が幕政に残した功績としては、これまでの武家諸法度を全文改め、内容自体はそれまでのものと大きな違いはないものの、わかりやすい文体に書き直すことで親しみやすいものとしたことがあげられる。
また、家康の時代からずっと緊張を続けてきた幕府と朝廷の関係を、綱吉時代の政策を引き継いでさらなる融和へ発展させたこと、朝鮮からの外交使節である朝鮮通信使を迎えるスタイルを変更したこと、琉球との外交関係を強化したことなどもある。

特に朝鮮通信使の件については、将軍の権威を高めるためにそれまで将軍が「日本国大君」と書かれてきたのを「日本国王」と変更させたことがしばしばクローズアップされる。
これは天皇に対する不敬という非難が当時からあったが、その一方で「大君」というのは天皇に対して使われることもあるのだが、朝鮮側からすれば国王の子(太子)に使われる言葉なので両方に不敬だから、清(中国)の天子の下にある朝鮮の国王と同格の存在として、日本の天皇の下にある将軍=国王なのだ、とする声もある。

この朝鮮通信使の一件において白石は強い非難にさらされ、一度は辞職を願いだすところにまで追い込まれたわけだが、家宣は彼を「一体分身」とまで言い切って擁護したし、このときの白石による応接を朝鮮側も高く評価し、彼が優れた学者であり詩人であることが広まるに至ったのである。

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