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【殿様の左遷栄転物語】田沼時代の終焉

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意次失脚の背景は

将軍庇護のもと権力をほしいままにした意次もやがて失脚し、田沼時代が終焉する時がくる。
ひとつの転機となったのは1784年(天明4年)、意次の嫡男で若年寄になっていた意知(おきとも)が、佐野善左衛門(さの ぜんざえもん)という男によって江戸城内で殺害されてしまったことである。

原因は善左衛門の私怨(物の貸し借り、あるいは土地問題など諸説あり)、公憤(政治を望断する田沼親子許すまじ!)、乱心などさまざまな説があるがはっきりしていない。
また、この事件に際しては意知の周囲にさまざまな人々がいたにもかかわらず善左衛門を積極的に静止するような動きが見られなかったことから、何らかの陰謀があったのでは、と考えることもできる。

これを機に庶民からも武士たちからも不満や非難が噴出するようになり、田沼政権の力は衰えていく。
しかも悪いことに1786年(天明6年)、意次にとって絶対的な後ろ盾であった将軍・家治が病没してしまう。彼のような成り上がり者が将軍交代時にどのような目にあうかは、すでに本章で繰り返し述べてきたとおりだ。意次はまもなく老中の職を追われ、屋敷も所領も没収されてしまったのである。

このような急転直下の失脚の陰には、反田沼派の者たちによる策動があったと考えて間題ないだろう。意次は将軍から絶大な信頼を受けていた分、敵もまた多かった。
その筆頭が、意次とはまったく正反対の質素倹約や米を基本とする経済政策を推していた、老中の松平定信(まつだいら さだのぶ)である。定信は徳川家の一族である御三卿の、それも筆頭の田安徳川家出身であり、意次らによって松平家の養子に出された、という過去もあった。下級武士出身の意次に対しては「あれさえなければ将軍になれたかもしれない」という個人的な恨みと、その急激な出世に対する妬みなども含まれていたものと思われる。

すなわち、どこにでもある「革新」と「保守」の対立の末として、田沼時代の終焉と意次の失脚はあった、と考えていいだろう。

家治の死には謎が……?

また、家治の死と意次の失脚自体に、陰謀のにおいを嗅ぎ取る向きもある。
その見方によれば、家治は急激に病状が悪化して異様な死を迎えたのであり、その直前には「毒を盛られた」とさえいったというのだ。しかも、家治の死後にそのことを隠蔽した定信は、家治の言葉を踊り、また本来は意次に近しかった御三卿・一橋徳川家の治済を抱き込んで、老中の意次を罷免してしまったのである。

こうして意次は幕政に復帰することもなく、失意のうちにまもなく亡くなってしまったのだ。ただ、先に江戸城で殺害された意知の子の意明に1万石の所領が与えられて、大名としての田沼家自体は存続が許されたのが、慰めになっただろうか。
ちなみに、意次を追放した定信は老中職に就き、11代将軍・家斉のもとで田沼時代の政治をひっくり返す「寛政の改革」に着手したが、あまり大きな効果をあげることはできなかった。それどころか、治済・家斉親子と対立し、老中の座から追われてしまう始末であった。

人を呪わばなんとやら、といったところだろうか。

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