大高城 の検索結果:
…敗北なのか、あるいは大高城への兵糧入れに成功したから勝利なのか。また、戦国時代の合戦は複数の戦いがまとまってひとつの戦いに計算されるものが多い(関ヶ原の戦いなどはまさにそうだ)が、どの戦いは別にし、どの戦いはひとつにまとめる基準はどうするか。そのため細かい数字は人によって変わるだろうが、とりあえず家康がたくさん勝った武将だったことは動かないだろう。ただこれも「そりゃ天下人になるためには負けっぱなしというわけにはいかないだろう」と言われればそれまでの話である。 そもそも家康の「…
…た家康が兵糧を入れた大高城との補給路も断つために)周辺に多数の砦を築くという作戦を採りましたが、じつは同じように城砦群を築いて攻撃目標の城を孤立させる試みを家康自身が高天神城を攻める際にやっています。 こういう相似形はひとつの例ですが、家康という人は太原雪斎や今川義元にはじまり、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉と多くの人からさまざまなことを学んだのだろうと思います。 余談ですが高天神城を紹介する際の定型句にもなっている「高天神を制する者は遠江を制する」という言葉の出典はご存知です…
…、桶狭間の戦いの後、大高城から逃れて岡崎へやってきた家康はこの大樹寺にある松平氏の墓の前で切腹しようとした。しかし登誉は押し留め、「厭離穢土欣求浄土」と書かれた旗を渡し、仏教の教えを説いたのである。家康も武将だから人を殺し、敵を攻撃するのが当然だが、それは一体何のためにするのか。それは最終的には万民のために、人々の苦しみを無くすためなのだ、というのである。家康は大いに感じ入り、以来「厭離穢土欣求浄土」の旗を掲げて戦場へ出るに至った、という。この説が有名なのだが、実はもうひとつ…
…忍者検定 上ノ郷城、大高城、岡崎城などすでに大河ドラマにも登場しているお城もあれば、これからまちがいなく登場するお城も紹介されているのでテレビのお供としても一年楽しめそうですね。 中身も一部サンプル画像をいただいたのでご覧ください。 今回はこの「ぶらり徳川家康ゆかりの城跡+忍びめぐり」を5冊プレゼントとしてご提供いただきました!(しかも佐藤強志さんのサイン入りです!)応募はフォームから簡単にできますので、みなさんふるってご応募ください。 最後にこの書籍の著者である佐藤強志さん…
…ち死にすると、家康は大高城を引き払って故郷の岡崎へ向かった。ところが父の城であった岡崎城には入らず、まず松平氏の菩提寺である大樹寺へ入る。当時の岡崎城には今川方の城代が入っていて、家康がそのまま入ることはできなかったからだ。その城代が駿河の方へ引き上げていく。つまり「捨てた」ということだ。捨て城であるなら拾ってしまっても構わないだろう――そのように理論武装、言い訳を用意した上で、家康は岡崎城に戻った……以上が、いわゆる通説における家康の岡崎城への帰還である。 これは「家康はあ…
「大高城の兵糧入れ」とは、桶狭間の戦いに関連して家康(当時は元康)がこなしたとされる任務のことだ。これは非常に危険な任務であったとされ、神君・家康の武勲史における輝かしい最初の1ページとして長く親しまれてきた。なお、この出来事は桶狭間の戦いの前年にあたる1559年(永禄2年)であったとする説もあるが、同年であったとするほうが一般的であるようだ。 桶狭間の戦いに先立つ今川義元による一連の尾張圧迫において、大高城は熱田にも近い重要な前線基地と見なされていた。逆に言えば敵(この場合…
…を見てみましょう。 大高城兵糧入れと丸根砦の攻撃 桶狭間の戦い前夜の情勢(国土地理院地図をもとにたかまる。が作成) 1560年(永禄3年)、今川義元は駿河・遠江・三河を支配していました。5月になると尾張を目指して大軍を進軍させますが、その先陣となったのが19歳の松平元康(のちの徳川家康)です。 家康は幼少は竹千代と呼ばれ、1549年(天文18年)、8歳の時に今川家の人質として駿河へ渡り、元服して松平元康と名乗っていました。松平家は今川家の家臣として尾張と接する西三河を領有して…
…、氷雨。異常気象 @大高城の兵糧入れ 陸路ではなく海路説がある。大高城の守将を朝比奈氏から鵜殿氏に交代させたのは、鵜殿氏は熊野出身だから →ただし史料の裏付けが乏しい、三河水軍はあったのか なぜ前日にリスクを犯して兵糧を? →弾薬では 夕方に外伯父・水野信元からの使者で義元討死の知らせと大高城の退去勧告 夜に大樹寺に移動して今川方の岡崎城撤退を待つ 23日に岡崎城に入城、4日も待っている →死のうとしたとか「厭離穢土欣求浄土」のエピソードは創作か? 大樹寺の「大樹」=将軍の意…
…康)の麾下に入って、大高城(名古屋市緑区)への兵糧運び入れに参加したり、丸根砦(名古屋市緑区)攻撃に加わったことが『寛政重修諸家譜』に記されている。この戦いで今川義元が討ち死にし、徳川家康が織田氏と結んで今川氏と対立・独立を果たすと、奥平氏ら作手の諸将もまた今川氏を見限って徳川についた。 この頃までにだいたい50年ほどの時が過ぎ、奥平氏の当主も貞昌・貞勝・貞能と代替わりをしていた。貞能(1537―98)は徳川臣下として今川氏との戦いや、「姉川の戦い」などに加わっている。とくに…
…城 鳴海城 沓掛城 大高城 鷲津砦と丸根砦 清洲城 今橋城(吉田城) 田原城 掛川城 小田原城 武田家については直政が「赤備え」を引き継いだという理由で取り上げているそうです。 (もう直虎は1ミリも関わってない) 田中城 躑躅ヶ崎館 海津城(松代城) 久能山城 新府城 諏訪原城(牧野城) 小山城 高天神城 最後は徳川家にゆかりのある城です。 岡崎城 引馬城 浜松城 野田城 長篠城 二俣城 駿府城 江戸城 「井伊直政の城」ではないものの、いずれも見どころのあるお城ばかりです。 …