攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

小倉藩 の検索結果:

【画像73枚】名古屋城・西の丸御蔵城宝館の見学レポート

…城築城の際、細川家も小倉藩として参加しています。その後、加藤家が改易となって細川家は小倉から熊本に移封となったので、この書状が熊本大学附属図書館にあるというわけです。 もうひとつは「岡村半右衛門尉事(おかむらはんえもんのじょうこと)」(熊本大学附属図書館蔵)という書状で、こちらは藩主・忠興の代わりに名古屋城築城の天下普請に参加した細川忠利が(忠興が普請奉行=ヘルプとして派遣した)岡村半右衛門を手討ち(処刑)にしてしまい、その自己弁護と、忠興へのとりなしを国許(小倉)にいる家老…

【戦国時代の境界大名】小笠原氏――名門武家、宿願のために三英傑の元を渡り歩く

…の肥前国唐津藩主家、小倉藩から別れた千束藩主家という大名家、及びいくつかの旗本家がある。 だが、これらとはまた別の系統で、越前国勝山藩主の小笠原家がある。この家はかつて小笠原一族を二つに分けた伊那松尾小笠原氏の末裔で、信濃を追われた後は甲斐の武田氏を頼り、武田氏の信濃占領後は旧領の松尾城(長野県飯田市)に戻っていた。しかし、信長による甲斐・信濃侵略に際しては武田を裏切って織田につき、信長の死後は徳川支配下へ移る。その後、幾度かの転封を経て、越前勝山2万3千石の大名として幕末ま…

「細川幽斎『古今伝授』と『天下統一』」参加レポート

…経て、細川家は九州・小倉藩に移りましたが、藤孝は京で晩年まで過ごしたそうです。しかし彼の知識に目をつけたのが徳川家康でした。1607年(慶長12年)、家康は藤孝に室町幕府故実書(幕府の公式行事や、大名の序列、大名から将軍へ進物する際の書式などなどが書かれたすごいマニュアル)の提出を求めます。 当時74歳の藤孝はかつて義昭の将軍就任のために準備した書物をもとに『室町家式』をまとめて提出する。さらに幕臣時代の同僚を推挙する(江戸幕府右筆や大坂町奉行になった者も)。 たしかに幕府を…

江戸時代をデータベース化する

…原家は明石藩のあと、小倉藩に加増移封されますが、どこの藩主をどのくらいつとめたかがわかるようになっています。本家と分家もツリー表示にしました。 小笠原家 完成するのを楽しみにお待ちください まだ一部のデータしか入力できていませんが、やろうとしていることはお伝えできたんじゃないかなと思います。江戸300藩の一覧表をつくるだけではつまらないし、攻城団の「楽しく学ぶ」というコンセプトにそぐわないので、「江戸時代を可視化する」というチャレンジをしてみました。江戸時代にどういった藩がど…

築城の名手(3)黒田官兵衛が築いた城

…ました。 当時豊前国小倉藩主であった細川忠興が、彼の三男で次期藩主の忠利へ宛てた、1620年(元和6年)3月16日付の手紙に「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」と書いていて、天守が存在していた可能性も出てきました。 このように新しい資料が発見されたりすることで、歴史の謎がひとつずつ解明されていくというのはほんとうに楽しみですね。今後の調査に期待しましょう。 ちなみにその福岡城ですが、同じく「築城の名人」と謳われる加藤清正が「自分の城は3~4日で落ちるが、福岡城は3…

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