攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

平岩親吉 の検索結果:

【家康の謎】家康の子どもは何人いたの?

…亡くなっている。八男の仙千代は平岩親吉の養子になった後、こちらも幼くして亡くなった。 家康晩年に生まれた九男義直、十男頼宣、十一男頼房はそれぞれ尾張・紀伊・水戸に家を建てられ、これがのちの徳川御三家になった(水戸は御三家に含まないという説も)。一方、五人の娘については多くが政略結婚をした。長女の亀姫は奥平信昌に、次女の徳姫は北条氏直に(北条との関係破綻後、池田輝政に)、三女の振姫は蒲生秀行に(のち浅野長晟に)、という具合だ。ただ、四女の松姫と五女の市姫はそれぞれ夭折している。

【殿様の左遷栄転物語】尾張藩付家老と水戸藩付家老

…頃には家康の信頼厚い平岩親吉(ひらいわ ちかよし)が義直の付家老を務めていた。その後、親吉が病没したために同僚の竹腰正信(たけのこし まさのぶ)とともに付家老となり、以後代々尾張藩の付家老を世襲する。 大御所政治に深くかかわった彼が、直臣から陪臣になってしまうために嫌がる者の多かった(実際、家康はまず別の側近に話を持ちかけ、拒否されている)この役目を受けたのはなぜだろうか。一説には、家康死後に政権の中心が秀忠側近に移れば、家康の下で活躍した自分は大きく反発を受けてしまうと考え…

【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府2代・徳川秀忠――若き日の過ちを堅実さで挽回 1579年~1632年

…井伊直政・本多忠勝・平岩親吉・榊原康政ら重臣を集め、「後継者を誰にしたものか」と聞いた。能吏・本多正信は次男の秀康を推した。知略と武勇が理由であった。徳川四天王のひとり・井伊直政は四男の忠吉を推した。関ヶ原の戦いで活躍したことを挙げたのだろう。これに対して、大久保忠隣の挙げた名前が秀忠だった。 昔から秀忠に仕えてきた彼は、武勇を理由とするほかの候補者に対して「乱世なら確かに武勇が一番ですが、これからは平和な時代なので、必要なのは文の徳です。秀忠さまは文と武を兼ね備えておられ、…

よくわかる第一次上田合戦

…居元忠、大久保忠世、平岩親吉らの軍勢が上田城に攻め寄せます。この3人はいずれものちに「徳川十六神将」に数えられるほどの武将です。 徳川軍が神川を渡ろうとしたときに昌幸が最初の攻撃を仕掛けます。 不意をつかれたために一時混乱しますが、おそらく敵が少数だったこともありすぐに立て直してこれを撃破。そのまま逃走する真田軍を追いかけて上田城に攻め込みます。 なんかこのあたりで「釣り」っぽいにおいがプンプンしますね。 大手門から二の丸門まで一気に突破した徳川軍に対して、真田軍は一斉射撃を…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する