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【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府2代・徳川秀忠――若き日の過ちを堅実さで挽回 1579年~1632年

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天下分け目の大失態

初陣での大失態や、父・徳川家康が生きていたころは政治の実権を握られていたこと、気丈な妻に頭が上がらなかったとされることなど、少々情けないイメージのある2代目。
しかし、この秀忠の時代に諸大名の統制や幕府の機構確立が進み、地味に見られながらも2代目としての役割をしっかり果たした将軍という評価がされている。

秀忠は徳川家康の3男である。
にもかかわらず嫡男に選ばれ、将軍にもなったのは、長男・信康が亡くなり、次男・秀康が他家へ養子に出ていたからだ。しかし、この地位が大きく揺らいだことがある。1600年(慶長5年)、天下分け目の関ヶ原の戦いのあとのことだ。

秀忠は西軍蜂起のきっかけになった上杉景勝征伐の段階から父に伴われて出陣しており、いざ石田三成挙兵となると、別働隊を率いて中山道を西へ進むことになった。
当然、その最大の役目は西軍との決戦に参加することだったのだが、これが初陣の秀忠は判断を誤った。西軍側についた信濃上田城主・真田昌幸・信繁(幸村)親子の挑発に乗って城攻めに狂奔し、あげくに落とせぬまま時間を大きく浪費してしまったのである。これが罠であると気づいたときにはすでに遅く、関ヶ原の戦いに間に合わなかった。

当然、家康は激怒する。先述したように、関ヶ原の戦いで家康の東軍は数的劣勢に立たされたのだが、これは秀忠の率いた3万8千の軍勢が間に合わなかったから、という部分が大きかったのだ。
一説には、ただ遅参したことが問題ではなく、「家康が敗れた場合には復讐戦をするためにきちんと軍勢を整えた上でやってこなければならなかったのに、バラバラの軍勢であわててやってくるとは何事だ」というのが激怒の理由だった、とも。

秀忠を救った忠隣の言葉

結局、秀忠はしばらく家康に会うことも許されず、家臣団がとりなしてようやく怒りは解かれた。それでも、家康としては悩んだのだろう。大久保忠隣・本多正信・井伊直政・本多忠勝・平岩親吉・榊原康政ら重臣を集め、「後継者を誰にしたものか」と聞いた。
能吏・本多正信は次男の秀康を推した。知略と武勇が理由であった。徳川四天王のひとり・井伊直政は四男の忠吉を推した。関ヶ原の戦いで活躍したことを挙げたのだろう。これに対して、大久保忠隣の挙げた名前が秀忠だった。

昔から秀忠に仕えてきた彼は、武勇を理由とするほかの候補者に対して「乱世なら確かに武勇が一番ですが、これからは平和な時代なので、必要なのは文の徳です。秀忠さまは文と武を兼ね備えておられ、かつ孝行の心を持ち人格もすばらしいお方です」と主張した。これが家康の心に響き、秀忠は改めて彼の後継者となった。1605年(慶長10年)に征夷大将軍職を譲られ、以後は大御所である父とともに二元政治を行った。
ちなみに、このときに秀忠を助けた大久保忠隣は幕閣における筆頭格まで上り詰めたが、1614年(慶長19年)に謀反の疑いをかけられ、改易処分にされている。これは本多正信・正純親子との権力争いの末、その謀略にはめられたものと考えられている。

一方、その正純は1622年(元和8年)、謀反を企んだ、という理由でやはり改易させられてしまっている。
後世の「宇都宮釣天井事件」というのは、この事件に尾ひれがついて「正純が自分の宇都宮城に釣天井を作り、秀忠を圧殺しようとした」物語として創作されたもの。これもまた政略争いの末に罠にはめられたものとされているが、その背景に時の将軍・秀忠の復讐の思いがあったとしても、まったく不思議ではない。

厳格な法の執行者として

秀忠が政治の実権を掌握したのは、1616年(元和2年)の家康死去後のことだ。1623年(元和9年)には息子の徳川家光に将軍職を譲っているが、父・家康にならって大御所となり、以後も実権を掌握した。
秀忠の治世における特徴は、法によって厳しい統制を行ったこと、といっていいだろう。武士に対する法である『武家諸法度』および朝廷と公家に対する法である『禁中並公家諸法度』はともに家康時代に制定されたものであるが、秀忠はこれらの法を厳格に適用することによって江戸幕府と将軍の権威を高め、潜在的な敵対勢力の力を弱めた。

たとえば、豊臣恩顧の大名の代表格である福島正則は「無断で城を修築した」として1619年(元和5年)に改易されているし、弟で越後高田藩の松平忠輝や甥の越前福井藩の松平忠直ら身内であろうとも落ち度があればやはり改易という厳しい処分に処している。
さらに、朝廷という巨大な権威に対しても締め付けを行っている。高位の僧侶や尼の着る「紫衣」は本来朝廷から許しが与えられるものだったのが、これを幕府の許可が必要であると定め、それを朝廷側が無視すると実力で僧侶たちから紫衣を取り上げてみせた。これは朝廷が幕府の下にあることを公然と示したものであり、時の後水尾天皇は天皇権威の失墜を嘆いて天皇をやめようとしたほどである。その一方、秀忠は自らの娘である和子(東福門院)を後水尾天皇に入内させており、後水尾天皇の後は和子が生んだ娘が明正天皇として即位した。これもまた、徳川将軍家の朝廷に対する勝利であった。

この他にも、家光の代に完成する江戸幕府の官僚機構は、秀忠の時代にプロトタイプ(原型)というべきものができていたのである。

やり過ぎなほどに孝行者?

さて、秀忠といえばかつて大久保忠隣が称したように「孝行者」で、また「礼儀正しい律義者」という評判も高かった。
『徳川実紀』も幼いときから「仁孝恭謙の徳」をもっていて、かつ勝手気ままなことはまったくしなかった、と褒める。「鷹狩りの出発を告げる鐘が鳴ると、食事中でも出かけた」エピソードなどは、秀忠ほど偉い人ならスケジュールを自分に合わせてもいいのに、と感じてしまう。家康とはまた別の意味で、「典型的日本人」というべき人なのである。

この性格で騙し騙されるのが当たり前の戦国時代を生きたらさぞ大変だったろう。しかし、彼の活躍した時代は、そのような戦国の気風を法と権威によって平伏させていく、天下泰平の時代である。良い時代を生きた、といっていいのだろう。
そんな秀忠が一番頭の上がらなかった相手、それは妻のお江であったという。この人は織田信長の妹・お市の方と近江の戦国大名・浅井長政の間に生まれた3姉妹の末妹(まつまい)で、一番上の姉は豊臣秀吉の側室として秀頼を産んだ淀殿である。お江は気の強い女性であったとされ、その怒りを恐れた秀忠はひとりも側室を持たなかった。身分の高い武士なら複数の側室を持つのが当たり前だったこの時代、これは非常に珍しいことだった。

ただ関係を持った女性はいて、子も生まれたのだが、「将軍の子」としての認知はできなかった。これが後の会津藩主・保科正之で、4代将軍・家綱の側近として活躍する。
女性関係では、こんな話もある。あるとき、家康が秀忠のところに美人の女中を1人送り込んだ。口実として菓子は持たせたが、目的はもちろん一夜をともにさせ、慰めることだ。ところが、現れた秀忠はきっちりとした正装で、かつ菓子だけ受け取ると娘はさっさと返した、という。
ここまでくると女性嫌いなのか、それとも「家康の送り込んできた女性と関係を持ったら何があるかわからない」と判断したのか。どちらもありそうだ。

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