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【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府15代・徳川慶喜――武家政権の最後を飾った英才 1837年~1913年

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「ねじ上げの酒飲み」式将軍就任

幼名は七郎麿(しちろうまろ)。武家政権の時代の最後を飾る征夷大将軍。
幼少期から英明を謳われた人物ではあるが、衰退していく巨大組織を救うことはできず、また討幕に向かって突き進んでいく時代の流れを変えることも不可能だった。

彼は御三家の水戸藩・徳川斉昭の七男で、一橋家に養子として入って一橋慶喜を名乗った。本来は江戸で育てられるしきたりなのだが、斉昭の教育方針で水戸育ちになった。幼少期は大変な腕自坊主だった。
その一方で厳しくしつけられており、「寝相の矯正のため、寝返りをしたら切れるよう、枕の左右に剃刀を置いた」などという話まで伝わっている。相当なスパルタ教育を受けていたのだろう。

長じて後、安政将軍継嗣問題で候補者になるも選ばれず、安政の大獄では隠居・謹慎処分を受けた。その後、14代将軍・家茂の後見役となり、特に朝幕関係を取り持つために奔走することになった。
そんな慶喜がついに将軍となったのは1866年(慶応2年)、第二次長州征伐のさなかに家茂が病没したためだった。

このときにも対立候補として田安家の亀之助がいたが、幕府が窮地に陥った状態で就任する将軍として、わずか4歳では話にならない。
擁立の動きがあったのは以前から「水戸嫌い」「慶喜嫌い」を隠さず、安政将軍継嗣問題でも家茂を擁立した大奥くらいのものだったようだ。

ところが、実は慶喜が将軍になるまでにはひと悶着があった。誰かが妨害したわけではなく、慶喜自身がなかなか承知しなかったのだ。
それどころか「徳川宗家の家督を継承するのはいいが、将軍にはなりたくない」と江戸幕府二百数十年の慣習を無視するようなことを言う始末だ。
このときの慶喜の様子を、福井藩主で幕政にも深くかかわった松平慶永(まつだいら よしなが=松平春嶽)は「ねじ上げの酒飲み」だ、と評している。これは酒を断りながら実は注がれた先から飲み干してしまう酒飲みのことで、つまう「ポーズとして断っているだけだ」といったのである。実際、慶喜は将軍職を継承することになる。

慶応の改革から大政奉還ヘ

将軍となった彼は幕政改革に邁進する。これを慶応の改革という。
以前は老中が各種の問題に対して合議を行って判断していたのを、陸軍や海軍、外国事務に会計といった各部局の上に立つ責任者を総裁として置き、その上に将軍が立つ中央集権的な組織作りを行った。さらに人材を集め、軍事力を強化する。幕府寄りの態度を示したフランス公使ロッシュを信頼し、資金を借りたり軍制をフランス式に改めたりもしている。

それでも、幕府が置かれていた状況はどうにもならない、と判断したのだろう。慶喜は奇策に打って出る。
朝廷に政権を返す――いわゆる「大政奉還」で、将軍職についてまもなく辞任の届出を出した。
発案は土佐藩の坂本龍馬・後藤象二郎であったとされる。この案によって、江戸幕府二百数十年の歴史は幕を下ろしたのである。慶喜が将軍になって1年も経っていなかった。

これは一見、幕府側の無条件降伏に見えるが、そうではなかった。政権を返されても朝廷側には全国を統治するようなシステムはなかったので、あわてたのはむしろ朝廷のほうであった。
また(旧)幕府もいまだ大きな勢力を残している。薩摩・長州といった討幕派が準備を進めていた幕府攻撃の出鼻をくじき、かつ今後再編されるであろう天皇を中心とした新政府で慶喜が「上院議長」あるいは「大君」といった主導的な役割を占めるための思惑があった、ともいう。
慶喜は政治的な駆け引きとして、あえて大政を手放してみせた、というわけだ。

徳川主導新政権の夢は破れ……

残念ながら事態は慶喜の予想を超えて動いた。
討幕派は「王政復古の大号令」を出して幕府勢力を排除した形での新政府樹立を決定し、さらに慶喜から内大臣の官位と領地を没収する旨、取り決めた。これでは、慶喜が考えていた「徳川が主導的な役割を持つ新政府」は成就し得ない。幕府が実質的に崩壊したのはまさにこの瞬間であった、といっていいだろう。

翌1868年(明治元年)、追い詰められた慶喜は兵を率いて上洛するも、官軍の証である「錦の御旗」を翻す薩摩・長州ら新政府軍に鳥羽・伏見の戦いで敗北。大坂城に戻るや、わずかなお供だけを連れて軍艦で江戸へ脱出してしまった。
取り残された幕府軍としてもこれでは戦えるはずもなく、「300年の天下を3日で失った」と慶喜を責めるものもいた、と伝わる。

この時期の慶喜には新政府(朝廷)と戦うか否か大変に迷っていた節が見られ、それが最終的な江戸への逃走という形に表れたのだろう。
やがて新政府軍が江戸に向かって進発する中、慶喜はひたすら恭順の姿勢を示した。小栗忠順に代表される抗戦派もいたし、彼を援助するフランス公使ロッシュも新政府と戦うよう勧めたが、慶喜はあくまで拒否。上野の寛永寺に入って謹慎した。

結局、新政府側の指揮官である西郷隆盛と、旧幕府側の代表者である勝海舟の会談によって江戸城の攻撃は免れ、慶喜は水戸で謹慎、ということになった。徳川家自体は、将軍就任時に対抗馬として名前が挙がった田安亀之助が「徳川家達(とくがわ いえさと)」として継承しているが、もちろん征夷大将軍ではもはやない。
その後も江戸や東北諸藩には旧幕府側勢力が存在し、彼らと新政府が激突する戊辰戦争がしばらく続くことになる。それらの戦いに、慶喜はまったくかかわっていない。

その後の徳川家と慶喜

家達は新政府によって駿河に70万石を与えられ、これが廃藩置県まで続いた。
慶喜もこの地でしばらくの謹慎生活を送った後、自由の身になったが当然政治にかかわることはゆるされず、ひたすら趣味に没頭する生活を送った。彼は大変に多趣味な人物であり、馬術や弓術といったいかにも「将軍らしい」ものから写真に油絵など「新時代」風のものまで多彩にこなした。

人物評としては長州藩・桂小五郎(木戸孝允)の「家康の再来」、フランス公使ロッシュの「本当の君主の風格がある」、イギリス外交官アーネスト・サトウの「日本人の中で最も貴族的な容貌」といったものが伝わっている。
しかし、幕末の動乱期においては優れた才覚を発揮する一方で、追い詰められて逃げるような行動を示しており、粘りに欠けた天才型、という評価をすることもできるだろう。

晩年になってようやく宮中への参内を許され、謁見した明治天皇は後に「罪滅ぼしがかなった」と話した、という。
また、最期の日々は静岡を離れ、東京で暮らしている。

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