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【歴代征夷大将軍総覧】江戸幕府8代・徳川吉宗――幕府を大改革した、強運の将軍 1684年~1751年

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トントン拍子の大出世

幼名は源六・新之助、初名は頼方(よりかた)。
御三家のひとつ紀伊藩徳川家からさまざまな奇縁が絡み合ってついに将軍にまでなりおおせた強運の将軍。

吉宗の父は紀伊藩主・徳川光貞(とくがわ みつさだ)だが、母・於由利の方の素性については諸説あって不明だ。
ただ、両親の出会いは「藩主が城の湯番の女に目をつけた」というものだったらしいから、彼女は下女だったはずだ。あまり美人ではなく体が大きかったといい、その血を継いだか吉宗も健康的で頑強な体の持ち主だったという。

彼の上には3人の兄がいたため、そのままならろくな出世は望めなかっただろう。
しかし1697年(元禄10年)、紀伊藩江戸藩邸を訪れた5代将軍・徳川綱吉が、父や兄とは別の部屋で待機させられていた吉宗を哀れに思って謁見させ、越前国丹生郡に3万石の領地を与えた(現地には赴かなかったようだ)のを皮切りに、トントン拍子の出世劇が始まる。

1705年(宝永2年)には紀伊藩主を継承する。父とふたりの兄が次々と病死していたこと(3番目の兄は早くに亡くなっていた)のが理由であった。ここまでなら「ただの幸運」で片付けられてしまいそうだが、吉宗は深刻な財政危機に陥っていた紀伊藩を劇的に改革し、財政を健全化したため、名君として大いにたたえられた。
その改革の内容は「自ら率先しての質素倹約、緊縮財政」「藩士たちに家禄(収入)の一部を返上させる」「新田開発・殖産興業で経済力の強化に努める」「訴訟箱を置き、広く意見を求める」といった内容が主で、これは後の享保の改革と同種のものである。

そんな吉宗が将軍になったのは、先代将軍である家継の急死のせいである。
本来は最有力候補であるべき御三家最上位の尾張藩主・徳川吉通(とくがわ よしみち)およびその子の五郎太はこの少し前に亡くなっており、徳川継友(とくがわ つぐとも=吉通弟)、徳川綱条(とくがわ つなえだ=水戸藩主)、松平清武(まつだいら きよたけ=家宣弟、館林藩主)といった御三家や親藩大名の面々が候補として残され、その中から吉宗が選ばれて将軍となった、というわけだ。
ちなみに、吉宗以前に分家から将軍が出た場合、その分家は消滅していたが、紀伊藩はそのまま存続している。

これだけ異例の出世を遂げただけに、「吉宗が将軍になった裏には、何かの陰謀があったのでは」という見方が当時からあったようだ。
兄たちの死、将軍の死、吉通の死の陰で、吉宗の手が動いたのではないか――噂の域を出ない話ではあるが、疑われても仕方のない幸運ではあった。

享保の改革――質素倹約と「米」

将軍としての吉宗が進めた政策を総称して「享保の改革」という。そのスローガンは「家康時代への回帰」であった。
人事面については、前代の政治を取り仕切っていた新井白石・間部詮房らを退け、代わって長らく政治への発言力を失っていた譜代の名門大名たちを重く扱った。
しかし、その一方では側用人と同種の役割を果たす「御側御用取次(おそばごようとりつぎ)」を設置し、ここに紀伊藩主時代からの側近を配置することでバランスのいい政治を試みてもいる。彼が抜櫂した人材は多いが、特に町奉行などを務めた大岡忠相(おおおか ただすけ)は有名だ。

ちなみに、吉宗は「正徳の治」時代の政策を転換していったわけだが、白石を嫌っていたわけではないらしい。むしろ、必要とあれば意見を求めるようなこともあったようで、吉宗という人の柔軟性を示すエピソードといえるだろう。
それまでの江戸幕府のシステムで取りこぼされていた「才覚はあるが、身分が低いので重要な役職につけない」人材を政権に取り込むため、在職中だけ臨時にその身分を高める「足高の制」も吉宗の政策だった。これは優れた人材を登用できるだけでなく、その人物が引退した後は高い俸禄を払わなくて済むので、幕府財政にもやさしかった。

経済面では紀伊藩時代と同じく厳しい倹約や上げ米(諸大名に石高にしたがって米を献上させる)、新田開発、などを推し進めた。
これだけでは不十分なため、それまでの検見法(取れ高に応じて年貢率を変える)を定免法(年貢率を変えない)に変更して、税収が安定するようにもした。さらに収入を安定させるため、米価の調整にも苦心した。
これらの「米」にかかわる改革が多かったのが、「米公方」のゆえんである。

しかし、これらの改革は農民たちから厳しく年貢を取り立てることにもつながり、また1732年(享保17年)には「享保の飢饉」と呼ばれる大規模な不作・食糧危機があったため、人々の生活は困窮した。結果、一揆や打ちこわしが起きたことも忘れてはいけないだろう。
殖産興業のため、キリスト教に関係のない洋書は輸入できるようになり、実学の研究が進んだのもこのころだ。同じ目的のために商品作物の研究も進み、飢饉に強い甘藷(サツマイモ)や砂糖の原料になるサトウキビなどの栽培が奨励された。

この享保の改革は一定の成功を収め、江戸時代の三大改革に数えられるうちの残り2つ、寛政の改革と天保の改革はともにこれを手本に行われた。しかし、情勢の変化もあって、享保の改革ほどの成功はかなわなかった。

美女追放と尾張藩との確執

吉宗といえば初代将軍・家康を手本に質素倹約を旨とし、実用主義を好んだ人である。墓も自らのものは作らず、綱吉の墓に一緒に入ったほどだ。ここでは、彼の「倹約」をめぐるふたつのエピソードを紹介する。
ひとつは大奥改革をめぐるものだ。「女の園」である大奥は莫大な浪費をしており、幕府財政にとって常に頭痛の種であった。しかし、政治的にも少なくない発言力を持っており、押さえつけて緊縮財政を強いるのも難しかった。吉宗が将軍になったこと自体にも、大奥の意思が働いていたというから、なおさらだ。

そこで吉宗はまず「大奥の美女50人を選べ」と言い出した。
普通に考えれば側室選び、ちょっとひねっても「美女だけを残すのか」といったところだが、吉宗は一味違った。なんと、この美女たちをすべて解雇してしまったのだ。理由は「美女なら大奥から出た後の生活も何とかなるだろう」である。
なんとも人を食った答えだが、彼女たちも「美女」といわれて悪い気はしなかったろう。さらに吉宗は大奥の実力者たちは厚遇したので、うまく大奥改革も進んだ、という。

もうひとつは、御三家筆頭・尾張藩の徳川宗春(とくがわ むねはる)との確執である。
この宗春というひとは自由を愛する派手好きで、一昔前の時代である元禄の世にこそ似合った人物であった。もちろん、質素を愛する吉宗と意見が合うはずもない。御三家同士の意地の張り合いも、その対立の背景にはあったかもしれない。

宗春は吉宗の命令を無視して文化政策を進めた。当時は遊郭も芝居も禁止され、祭りも質素にやることになっていたが、これは尾張藩では無視され、名古屋の町は大いに華やぐことになった。
しかし、吉宗の改革が一定の成功を収めたのに対し、宗春には挫折が待っていた。一連の文化政策によって藩の風紀は大いに乱れ、藩財政も危機に陥った。
将軍家との対立から、謀反の噂もついて回った。そしてついに吉宗は宗春を御三家初の隠居・謹慎処分に処するに至ったのだった。

吉宗の趣昧は武芸と書画と象!?

宗春のような絢爛豪華なものではなくても、吉宗は吉宗で趣味を楽しんでいた。
最も有名なのは、武芸に打ち込んだことであろう。天下泰平の時代が長く続いたこともあって、将軍が家康時代のように武芸に励むようなことはすっかりなくなっていたが、吉宗は武芸の復活に努め、特に弓術と馬術、また鷹狩りに熱心だった。これらには享保の改革の一環として、平和な時代で緩んだ武士たちを引き締める狙いもあったものと思われる。

吉宗の興味は書画にも向いて、彼の書いた書・絵画ともに複数点が現代にも伝わっている。
特に絵画については「にじみ鷹」という淡墨で鷹を描く技法を開発し、これは後に多くの絵師へ継承された。また、狩野周信(かのう ちかのぶ=狩野尚信の孫)から教えを受け、彼が幼い息子・古信を残して亡くなると、古信を身近において自らの学んできた絵画の技術を教えた、というからすごい。とても将軍のすることではなさそうだが、吉宗らしい型破りで筋を通したやり方だ、ともいえる。

吉宗は好奇心あふれる人物でもあった。オランダから入ってきた動物図鑑を愛読し、そこに載っていたであろうさまざまな海外の動物たち――ジャコウネコや孔雀、舵鳥などをわざわざ輸入させたほどである。
そうした「珍しい動物好き」が究極の形で結実したのが、象の輸入であった。わざわざベトナムから連れてきたこの象は、オスメスのつがいのうちメスのほうは途中で死んでしまったり、道中の村々には象対応用のマニュアルが配られたり、天皇が見物するために象に官位が与えられるなどという事件もありつつ、どうにか江戸へ到着。吉宗や諸大名、そして市井の人々が見物することになった。

名君も女性はお好きなようで……

最後に、吉宗と女性に関するエピソードをふたつ。美女を大奥から追い出した吉宗だが、女性は好きだったようで、ロマンス関連の話は結構あるのだ。
たとえば、公家の娘で綱吉の養女の竹姫との恋が知られている。20歳あまりも年が離れていたふたりだが、吉宗は婚約者に2人も先立たれた彼女に同情し、恋に落ち、ついには継室として(正室はすでに亡くなっていた)迎えようと考えた、という。しかし「綱吉の養女」という身分が問題になってかなわず、竹姫は薩摩藩主・島津継豊(しまづ つぐとよ)の継室となった。

1728年(享保13年)には「吉宗のご落胤」を名乗る怪人物が現れ、江戸を騒がしている。
これが「源氏坊改行事件(げんじぼう かいぎょう じけん)」だ。名奉行・大岡忠相が解決した事件として世に知られる「天一坊事件(てんいちぼうじけん)」というのは、これを元にした創作である。
このときは結局「証拠もなく吉宗の子を騙った」として獄門に処されたが、吉宗としては覚えもあったようで、ゾッとしたのではないか。

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