攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

徳川御三家 の検索結果:

【家康の謎】家康の子どもは何人いたの?

…亡くなっている。八男の仙千代は平岩親吉の養子になった後、こちらも幼くして亡くなった。 家康晩年に生まれた九男義直、十男頼宣、十一男頼房はそれぞれ尾張・紀伊・水戸に家を建てられ、これがのちの徳川御三家になった(水戸は御三家に含まないという説も)。一方、五人の娘については多くが政略結婚をした。長女の亀姫は奥平信昌に、次女の徳姫は北条氏直に(北条との関係破綻後、池田輝政に)、三女の振姫は蒲生秀行に(のち浅野長晟に)、という具合だ。ただ、四女の松姫と五女の市姫はそれぞれ夭折している。

【殿様の左遷栄転物語】第4章まとめ 独立運動にも背景がある

…確に表れているのが、徳川御三家付きの付家老が展開した独立運動と、その背景を見ていただくことでおわかりいただけたのではないか、と思う。そして、幕府が家老たちの独立運動を一部は認めつつも最終的には認めなかった、そのわけも。 御三家付家老が設置されたのにも、また維持され続けたのにも、明確な意味があった。だが、その意味は初期の付家老たちには共有されていたかもしれないが、太平の世の中が続くにつれて、その末裔たちには意味のないもの、自分たちが不当に冷遇されているという認識を抑えられないも…

【殿様の左遷栄転物語】幕府に警戒され続けた男 福島正則

…あった尾張――のちに徳川御三家のひとつが置かれることになる東海の要所――から追い出されるということでもあったのである。正則は家康をあくまで「豊臣家の家老」と見て関ヶ原の戦いで味方したとされるが、自分をはじめとする豊臣恩顧の諸大名を要所から追って自らの思うように大名を配置した家康の行いに、天下人たろうとする意思を見出して歯噛みしただろう(ただし、家康としては「敵軍の総大将の領地」を与えることで、関ヶ原の戦いで一番の手柄を上げた正則を満足させようとし、もしやこれでも満足しないので…

こーたさんの「史跡犬山城跡指定記念シンポジウム 〜史跡犬山城跡のこれから〜」参加レポート

…地としての経済発展、徳川御三家尾張藩の付家老(つけがろう)という立ち位置で、ステータスもありながらコンパクトに残ったまま明治維新まで続いた、というお話でした。そして「これから観光はもっと知的にスマートになっていく」とおっしゃり、城下町への思い・観光客への期待を述べられました。 ──まさにDMO(Destination Marketing / Management Organization)視点の話で、攻城団がプレゼンテーションしていることのようだと思いました。 麓先生から、犬…

徳川歴代将軍の在任期間

…えたてなんですけど。徳川御三家は元々、徳川宗家(=将軍家)の後嗣が絶えたときに備え、家康がつくっています。「将軍家に後嗣が絶えた時は、尾張家か紀州家から養子を出す」といわれていて、御三家の中でも水戸家はちょっと格下扱いです(でも徳川姓を名乗ることや三つ葉葵の家紋使用が許されたので、御三家には含まれています)。 いわばバックアップとしての存在なのですが、家継に子どもがいなかったので(まあ8歳で亡くなってますからね)、いよいよ御三家の出番がきたというわけです。まああれやこれやと政…

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