戸次鑑連 の検索結果:
…で、それ以前の名前は戸次鑑連(べっき あきつら)という。 彼はその生涯において九州各地を転戦し、様々な戦いを繰り広げているが、その姿は実に特徴的なものだった。道雪は馬ではなく輿(こし)に乗って戦場を往来したのだ。これについてはひとつのエピソードが伝えられている。 それはとある夏の日のこと、道雪は急に降り出した雨を避けて大樹の下で雨宿りをしていた。この時、突然雷鳴が轟いて彼の身体を稲妻が撃つ。しかし、道雪はとっさに愛刀・千鳥を抜き放つと、稲妻の中にいた雷神を斬った、という。この…
…には立花道雪(当時は戸次鑑連(べっき あきつら)と名乗っていた)という、それぞれ戦国時代を代表する名軍師・知将が参加し、その知略を激しく戦わせていたことだ。小早川隆景は元就の三男で小早川家に養子として入り、「毛利の両川」として本家を支えた、知将として名高い人物だ。元々水軍に縁の深い小早川家を率いて活躍した。一方の立花道雪は、この後でも述べるが大友家を支えた名軍師として諸国から畏怖された人物だ。この2人が激突したのだから、まさに戦国時代ファン垂涎の戦いと言える。 戦いはまず2万…
…して立花氏を継承した戸次鑑連(立花道雪)から、その養子・立花宗茂へと譲られた。 その後、豊臣政権下ではこの地は黒田長政のものとなる。その他多くの山城と同じく、立花城もまた天下泰平の時代には無用の長物であり、長政は福岡城を築いて居城とし、こちらは廃城とした。中国地方と九州地方が接する激戦地であるこの地は、戦国時代においては大内氏あるいは毛利氏と大友氏の激闘の舞台になったのはすでに見てきたとおり。特に激戦となったのが、1568年(永禄11年)に城主・立花鑑載(たちばな あきこと)…