攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

斎藤義龍 の検索結果:

攻城団テレビで「家康はなぜ名字を松平から徳川に変えたのか」という話をしました

…もたくさん出ました。斎藤義龍が一色を名乗ろうとしたとき、全国の一色さんからの苦情はなかったのかとか、その意味ではほとんど子孫が残っていない北条は名乗りやすかったのかもしれないとか。素人質問でいつも榎本先生にはご迷惑をかけていますが、丁寧に説明していただきありがたいです。 番組中にも話したのですが、現代人にとって名字はほんとうにただの記号でしかありませんが、戦国時代の名字には序列や格差があったということです。土岐氏に張り合うために一色という名字をほしがったり、将軍や天皇からもら…

明智光秀と斎藤利三――あるいは運命共同体

…。 美濃の生まれで、斎藤義龍に仕え、その後稲葉一鉄の元に移った。一鉄の娘あるいは姪を妻に迎えたというから、かなり重く扱われていたのではないか。信頼できる史料において彼の名前が初めて登場するのは『信長公記』で、1570年(元亀元年)の金ヶ崎撤退戦の直後、一鉄のもとで一揆の鎮圧などに働いたことがわかる。 ところが、利三は一鉄の元を離れ、同じ織田家中の光秀の家臣になった。原因はわからない。何かの方針や待遇で対立したのか、それともドラマのように酷い扱いをされたのだろうか。『当代記』に…

明智光秀と斎藤龍興ーーあるいは越前でニアミス?

…ターとして大活躍した斎藤義龍(義竜、作中では高政と呼ばれることが多かった)の息子だ。彼が大名となったのはわずか15歳のときだった。父の義龍が突然病死してしまったからである。それから数年で斎藤家に従っていた家臣たちが次々と離反し、以前から美濃を伺っていた織田信長も侵攻を開始。龍興は美濃を追われ、戦国大名斎藤家は三代で滅亡となってしまった。 彼は後世様々な物語でその凡庸さを指摘されるが、幼くして一国の大名とならざるを得なかったことも含めて仕方がない部分が多分にある。大河ドラマの中…

明智光秀と足利義輝――あるいは幻の主従関係

…長線上で、織田信長や斎藤義龍も上洛し、義輝に拝謁している。 そんな義輝は、足利義晴の子として生まれた。幼くして父に補佐されつつ将軍職についたものの、後見人的存在であった細川晴元と反目したせいで父ともども京を追われてしまう。まもなく晴元との関係は修復したものの、今度は三好長慶と対立することになり、晴元ともども近江へ追いやられることになる。このとき近江に逃れることになったのは、敵対する三好家が四国をはじめ京の西側に基盤を持っていたのでそちらには逃げにくかったこと、そして義輝に味方…

明智光秀ゆかりの地おすすめ19選

…、11歳で城主となり斎藤義龍に攻められ落城するまでの30年近くをこの城で過ごしていたと考えられています。城跡には本丸跡や曲輪や土塁などの遺構が比較的良好な状態で保存されており、明智城の散策道として整備されハイキングコースとしても楽しめるようになっています。 明智城の北のふもとにある天竜寺には、184cmという日本一大きな明智光秀の位牌があり、明智氏歴代の墓所もあります。6月には光秀公御法要が営まれているそうです。光秀が幼少期から大人になるまでを過ごした居城としてぜひ散策してみ…

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」キャスティング一覧

…の当主。帰蝶の父。 斎藤義龍 伊藤英明 道三の嫡男。光秀とは学友。 深芳野(みよしの) 南果歩 道三の側室で元は土岐頼芸の愛妾。 小見の方 片岡京子 道三の正室 斎藤喜平次 犬飼直紀 道三の三男 斎藤孫四郎 長谷川純 道三の次男 土岐頼芸 尾美としのり 美濃国守護。 土岐頼純 矢野聖人 土岐頼武の嫡男 稲葉良通(一鉄) 村田雄浩 斎藤家家臣。のちに織田家家臣。 足利義輝 向井理 室町幕府13代将軍。 足利義昭 滝藤賢一 義輝の弟。のちの室町幕府15代将軍。 三淵藤英 谷原章介…

明智光秀と斎藤義龍ーーあるいは道三とのつながりの謎

斎藤義龍(義竜)。今年の大河ドラマ『麒麟がくる』においては伊藤英明さんが賢くも迷える若者を好演されているのが印象的だ。作中で呼ばれていた「高政」というのは短い時期だけ名乗っていた名前だが、これを敢えて名乗らせるということは、大河ドラマチームとしても義龍をよくある「信長の前に立ち塞がった敵役の一人」にする気がないのだな……と感じるものがあった。 義龍は道三の嫡男である。誕生は1527年(大永7年)であるから、この頃の道三は土岐頼芸と深く結びつき始めていた時期だ。父の代からの新参…

「麒麟がくる」第1回に登場した明智城と稲葉山城はどんなお城か

…2年)に稲葉山城主・斎藤義龍の攻撃を受けて落城したともあるので、学友として光秀と良好な関係のように見えた義龍との間にどういう変化があったのかもドラマの見どころですね。 なお城址北麓にある天竜寺には 明智光秀の位牌と明智氏歴代の墓所があり、光秀の出生地かどうかはさておき、明智氏や光秀となんらかの関係がありそうな気もします。 kojodan.jp 稲葉山城――道三の居城はのちに信長が岐阜城に改名―― 斎藤利政(のちの斎藤道三)の居城として登場したのが稲葉山城です。のちに織田信長が…

【戦国合戦こぼれ話】信長の美濃攻めと斎藤氏切り崩し工作

…で信長と対立してきた斎藤義龍が病に倒れ、代わって息子の龍興が家督を継承している。この龍興は祖父や父と違って凡庸な人物であったとされ、のちに家臣によって居城を一時的に占領されるという醜態も演じている。実際、信長はこの代替わりの隙をついて美濃へ攻め込んでいるのだが、大きな成果を挙げられていない。 そんな中、信長が選んだのは美濃をじっくりと切り崩していく方法だった。なぜかといえば、美濃の国人たちは道三・義龍の作り上げた体制のもとでしっかりと団結しており、信長自身にもまだ尾張国内に従…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する