攻城団ブログ

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柳生家 の検索結果:

【殿様の左遷栄転物語】返り咲きを期待して決断 柳生宗矩

…はず。しかし、そんな柳生家も一度、大名の地位を失ったことがあるのをご存じだろうか。 柳生家は菅原道真の末裔を称する大和国の国人であった。柳生宗厳(石舟斎)の代、剣聖と謳われる上泉信綱と出会って新陰流を学び、そこから柳生新陰流を創始して以後、剣の技を磨いていった。一方、宗厳の子である宗矩は父に推されて徳川家康に仕え、関ヶ原の戦い後に2千石を与えられた。さらに2代将軍・秀忠の兵法師範(剣術の師匠)とされ、大坂の陣では秀忠の本陣を守って活躍した、ともいう。 一説には柳生家は近隣の伊…

【戦国時代の境界大名】柳生氏――めまぐるしく変わる情勢の中、一芸に活路を見出す

…戦国時代初期に現れた柳生家厳という人は一廉の武将であったようだ。 この時に家厳が仕えていた木沢長政は、室町幕府重臣畠山氏の家臣ながら、細川晴元にも随従する梟雄。そのもとで各地を転戦している。というのも、戦国時代の畿内は動乱が打ち続いていたからだ。そもそも、将軍の後継者争いと各有力守護家の内紛が連鎖して大内乱となった応仁・文明の乱(1467―77)が約10年続き、それが終わったと思ったら今度は時の将軍・足利義材(義稙)が管領(将軍を補佐し政務を司る)を務めた細川政元によって追放…

2.譜代家臣団の成立

…家、毛利家、山口家、柳生家、堀家、蜂須賀家、増山家などが含まれる。 これらとは別に松平家の一門がある。実は譜代大名として数えられる松平一族も少なからず存在したのだ。 松平一門 徳川を名乗ることができたのは、基本的に御三家と御三卿だけで、それ以外の一門――および元々松平を名乗っていた十八松平(十四松平)――はすべて松平姓を使っていた。また、徳川直系の保科家や越智家、紀伊徳川の一族になった鷹司家、松井家にも松平の姓が与えられている。さらに家臣でも目覚ましい功績のあった柳沢家や、有…

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