攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

毛利秀元 の検索結果:

【戦国軍師入門】関ヶ原の合戦――100人を倒すより1000人に裏切らせる

…秀秋は松尾山、そして毛利秀元(輝元の養子。輝元は大坂城に残って出陣しなかった)は南宮山。関ヶ原の盆地に布陣した東軍に対し、西軍は鶴翼の陣(鳥が翼を広げたような横に広がった陣形)ですっかり包囲する形に取り、最初に述べたように陣形としては有利だった。 実際、おりからの濃霧が薄まってきた頃に、松平忠吉(まつだいら ただよし)と井伊直政が本来の先鋒を差し置いて抜け駆けしてからの序盤の2時間、西軍は戦況を優位に進めていた。この時、島津・小早川・毛利がそれぞれ戦闘に参加していなかったにも…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ⑤――勇ましくも美しき女武将の活躍した城・安濃津城

…、安濃津城はすぐさま毛利秀元(もうり ひでもと)の軍勢に囲まれてしまう。この際、上野城主・分部光嘉(わけべ みつよし)が自分の城を捨ててまで安濃津城の援軍に加わったが、それでも味方1500に対して敵が2万とあっては、兵力の差は歴然というしかなかった。 この時期、東軍の主力のうち福島正則ら豊臣恩顧の諸大名は尾張や美濃のあたりにおり、総大将である家康はまだ江戸にいたので、彼らの援軍も期待はできない。信高は悲壮な決意で戦いに挑んだに違いない。あるいは、最初から「ある程度戦ったら降伏…

【殿様の左遷栄転物語】無念の長府藩主 毛利秀元

…府藩の初代藩主である毛利秀元は、本来は本家の当主となるはずだったのに、それがかなわなかった男である。 秀元は毛利元就の四男である元清の子で、毛利本家の当主である輝元のはとこにあたる。この輝元には実子がなかったために、1592年(天正20年)、13歳のときに秀元が養子となり、後継者候補となっていた。実際、養父の代わりに「文禄の役」で総大将を務めるなどの活躍もしている。 またちょうどこのころ、秀元が豊臣秀吉の命を救った、などという逸話もある。秀吉の乗っていた船が岩にぶつかって沈ん…

【殿様の左遷栄転物語】再興運動が展開された 徳山藩毛利家

…戚にあたる長府藩主の毛利秀元(この人物については3章で詳述)とも仲が悪かった。秀元の娘を妻に迎えたのに、離婚してしまったからだ。かつて、戦国時代には毛利元就を中心に3人の息子ががっちりと手を組み(「三本の矢」の故事で有名)、団結力を武器にした毛利家がこの有様なのだから、もし元就があの世からこの様子を見ていたら、どれほど嘆いたことだろうか。 領地争いは意外な結果に そんな藩同士の対立を背景とし、ついに事件が起きたのは就隆の四男・元次(もとつぐ)が徳山藩主であった頃、1715年(…

【戦国合戦こぼれ話】関ヶ原の戦い――始まる前に終わっていた!?

…小早川秀秋や南宮山の毛利秀元といった軍勢は動かない。それでも西軍側の奮戦によって戦況は一進一退で推移したが、ついに小早川の軍勢が動くや、事態は一挙に終局へ向けて動き出した。 小早川軍は本来味方であるはずの西軍に向けて殺到し、これによって西軍は総崩れと相成ったのである。毛利軍は最後まで動かなかった。この両軍は戦いが始まる前から東軍側と内通し、三成を裏切っていたのである。 これこそ冒頭で紹介した「根回し」に他ならない。東軍が不利な状況にあえて突っ込んだのも、この事前準備があったか…

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