攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

相馬家 の検索結果:

【殿様の左遷栄転物語】本領にこだわり続けた執念 相馬利胤

…陸奥国中村藩6万石の相馬家である。平将門が下総国の相馬に拠ってこの地の名前を名乗ったことから始まるとされるこの名門は、戦国時代においてはたびたび佐竹家らと手を組んで伊達家と戦った。やがて豊臣秀吉が進出してくるとこれに恭順し、無事本領を安堵されている。 関ヶ原の戦いにおいてはそもそも佐竹家らと同じく「三成派」という見方をされており、かといって直接的に東軍・西軍のどちらかに積極的に味方をすることもなかった。これは佐竹家と歩調を同じくするという向きもあったろうし、積極的に攻撃するよ…

【殿様の左遷栄転物語】15年を経て再興 岩城貞隆

…、佐竹一門は後述する相馬家も改易されたし、岩城家と同じく佐竹義宣の弟が養子として入った蘆名家も改易されていて、岩城家だけが処分を受けたわけではない、というのは押さえておくべきポイントだろう。 執念の再興 このことが原因だったのかどうかはわからないが、浪人となった貞隆は兄を頼ろうとはしなかった。あくまで独立大名としての再興を目指したのである。改易となればほとんどの家臣は離散してしまう――会社が倒産したのに、わざわざ社長に付き従う社員はあまり多くない――ものだが、貞隆には42人の…

【戦国時代の境界大名】相馬氏――奥州第一の実力者・伊達氏との抗争を戦い抜く

…で、相馬氏は近世大名相馬家として残ることができたのだ。なお、三胤はのちに「利胤」を名乗っているが、この「利」の字は、徳川家中の有力者、土井利勝からもらったものである。 その後、義胤が居城を中村城(相馬市)に移したことから、中村藩相馬家としてその血筋が残っていく。隣国に因縁深い仙台藩伊達家があったことから無言のプレッシャーもあったようだが、伝統の行事である相馬野馬追を軍事訓練と士気向上に役立てるなど、武士としての気概を強く持ち続けた。幕末、戊辰戦争においてはその仙台藩が盟主とな…

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