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…023年7月15日 砥石城 御城印 砥石城(岡山県瀬戸内市) 長船刀剣博物館隣のふれあい物産館 300円 印刷 2023年7月8日 三嶽城(三岳城) 御城印 赤バージョン 三岳城(静岡県浜松市) 内山製菓、御菓子司すぎや、竜ケ岩洞 受付 300円 印刷 はがき大 2023年7月1日 黒井城跡 御城印 青もみじバージョン 黒井城(兵庫県丹波市) 丹波市観光協会、丹波ええとこナビ(丹波市観光情報センター)、国領温泉 助七旅館、氷上PA 丹波いっぷく茶屋、かいばら観光案内所、丹波竜…
…は村上義清の戸石城(砥石城とも)を攻めるも攻めきれず、さらに義清が他の武将を動かして武田軍の退路を断とうとしたために軍を退く。ところが、ここを追撃され、後に「戸石崩れ」と呼ばれる大きな被害を受ける。 この時に幸隆がいち早く撤退を提案したために武田軍の損害は抑えられたという説もあるのだが、彼の活躍はむしろここから始まる。幸隆は戸石城の兵士たちや周辺の武将たちに寝返り工作を執拗に仕掛け、この堅城を骨抜きにすることに成功する。そして「戸石崩れ」の翌年、ついに自分の手勢だけで戸石城を…
堅固な山城である砥石城(戸石城、長野県上田市)はもともと北信濃の豪族・海野氏のものであったが、同じく北信濃の有力者であった葛尾城主の村上義清(むらかみ よしきよ)がこれを奪い取る。武田信玄の信濃侵攻において強大な壁となり、「生涯にわずか二度」という信玄の敗北の相手になったのが彼、義清であった。そして、そのうちの一度、「砥石崩れ」と呼ばれる戦いの舞台こそが、この砥石城だったのだ。砥石城自体はやがて武田氏の家臣である真田氏のものとなり、第二次上田合戦の記録の中にその名前が出てくる…
…昌幸の父である幸隆(砥石城の攻略で知られる)がもともとこの地にあった常田氏の居館を整備しているが、城郭としての上田城は昌幸の手によるものだ。山を背にした平城で、かなりの規模であったと考えられるが、詳細はわからない。 しかし、上田城は完成してすぐに戦火に晒されることになる。この時期、武田氏の滅亡に本能寺の変での織田信長の死と大事件が頻発し、中部地方は実質的な空白地帯となってしまったからだ。結果、上杉氏・北条氏・徳川氏の三勢力がこの地域に手を伸ばしてくる。これに対し、昌幸は丁々発…
…、天文19年に小県の砥石城(上田市)を攻めた際には「砥石崩れ」と呼ばれるような大敗を喫しているのだが、敗戦の翌年には幸隆がその砥石城をあっさりと乗っ取っている(『高白斎記』)。 信玄は幸隆の活躍を大いに認め、小県に2200貫文(石高に換算すると5400石余とされる)の所領を与えた。そのなかには真田郷も含まれており、幸隆は11年の月日を経てついに父祖の地を取り戻した、ということになる。幸隆の謀略は1561年(永禄4年)の上野岩櫃城(群馬県東吾妻町)攻めでも発揮された。斎藤憲広が…
…0年(天文19年)の砥石城を巡る攻防戦(いわゆる「砥石崩れ」)の二度にわたって手痛い敗北を喫している。「麒麟がくる」では帰蝶が織田信長のもとに輿入れし、また今川軍の攻撃が織田と尾張、さらには美濃までも大いに揺らしていた頃のことだ。 信玄は諦めなかった。1552年(天文21年)までには義清ら北信地域の敵対勢力を追い出すことに成功したのである。一方、南信地域も放っておいたわけではなく、1555年(弘治元年)には木曽氏を倒しておおむね侵攻を完了している。こうなると信玄の存在は信濃の…