攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

第一次上田合戦 の検索結果:

大晦日に攻城団テレビで〈【大河ドラマ直前予習企画】どうした家康〉をライブ配信しました

…正13年)、44歳 第一次上田合戦 @徳川・北条の和睦の条件(領土協定)は「切り取り次第」だったので、上野国沼田領について北条氏は真田から奪い取らなければならなかったが、真田昌幸は矢沢頼綱に沼田城を死守させる 家康は対上杉の最前線とするため、上田城の築城を支援している しかし督姫と氏直の婚姻が成立して同盟が結ばれると徳川・真田の関係は悪化する(氏直が家康に沼田城・岩櫃城の引き渡しを要求してきたため) 家康からの引き渡し命令を昌之は拒否、徳川から上杉に乗り換える 閏8月に上田城…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】名城・名勝負ピックアップ②――徳川の大軍を押し返した城・上田城(第一次上田城の戦い)

信濃の上田城(長野県上田市)は、小勢が籠もって大軍の攻撃を撥ね返した城である。しかも二回――両方とも徳川の大軍を相手の大立ち回りであった。上田城を領する真田氏が俗に「徳川の天敵」などと称される所以であるが、まずここでは「第一次上田城の戦い」について紹介したい。 上田城は1583年(天正11年)、武田家臣の真田昌幸が城郭として整備したと伝えられる。それ以前にも昌幸の父である幸隆(砥石城の攻略で知られる)がもともとこの地にあった常田氏の居館を整備しているが、城郭としての上田城は昌…

【戦国時代の境界大名】真田氏――時代の趨勢そのままに主君を変える

…勝である。この戦いを第一次上田合戦という。しかし、徳川はこの頃すでに三河・駿河(静岡県)・遠江(同)を支配し、甲斐と信濃にも手を伸ばす大大名である。一度の敗北で引き下がるはずもなく、井伊直政が5000の援軍を率いて戦線に到着。じっくりと上田城を攻める構えを見せていた。 ところが、徳川軍は年が明ける前に引き上げてしまう。これは、徳川の重臣である石川数正が豊臣方へ出奔してしまった結果、豊臣・徳川関係がふたたび緊張化し、真田を攻めているどころではなくなってしまったからだ。ちなみに、…

【戦国合戦こぼれ話】家康が苦戦したわけは第二次上田合戦にあり!?

…年(天正13年)の「第一次上田合戦」と区別するため、この戦いは「第二次上田合戦「と呼ばれる。 昌幸・幸村親子は徳川軍を挑発して戦闘状態に引きずり込むと、あるときは場内におびき寄せてこれを痛めつけ、またあるときは自ら打って出て敵を混乱させた。秀忠の率いる3万8000という軍勢はついに上田城にこもる真田の小勢を屈服させることができず、むしろ城攻めを諦めるまでに1週間という時間を浪費させられ、結果として関ヶ原決戦に間に合わなくなってしまったのである。 「第二次上田合戦」は「関ヶ原の…

【受験にご利益あり?】全国にある「落ちない城」一覧

…5年(天正13年)の第一次上田合戦、1600年(慶長5年)の第二次上田合戦と徳川軍が二度とも惨敗したことは大河ドラマ「真田丸」でも大きく扱われたのでみなさんもご存知のとおりです。上田城は合戦では腐敗でしたが、昌幸と幸村(信繁)が九度山に配流されたあと徳川軍に破却されました。現在は本丸跡に眞田神社(真田神社)が建立されており、以前から受験生の祈願が多いことで有名でした。 kojodan.jp 唐沢山城 上杉謙信の10度にわたる攻撃を籠城戦で防いだことで知られる「関東一の山城」で…

『真田丸』前半まとめ(とこれから起こることを整理)

…部のクライマックス、第一次上田合戦です。 史実では信繁は(人質として春日山城にいたため)参加していない説が有力ですが、やはり主人公として合戦に参加しました。昌幸が「駒がひとつ足りない」といい、その最後のピースとして信繁が戻ってきて一家総出で徳川と戦うシーンは「家族」がテーマになっている『真田丸』らしかったです。 これまで合戦はナレーションですませていましたが、今回はセットも組まれてましたね。 2000の兵で、3倍を超える徳川軍7000に勝利したこの合戦は昌幸の名前を有名にしま…

関白と征夷大将軍はどっちがえらいのか

…ました。 ちょうど「第一次上田合戦」で真田が徳川とわちゃわちゃ戦ってた頃です。 補足すると、猶子というのは養子とほぼ同じなんですけど「家督や財産などの相続を必ずしも目的とせず、権勢を借りたり、同族内の結束を強化するため」におこなわれるものです。まさに秀吉は「藤原朝臣姓」がほしかっただけなので、このケースは典型的な猶子ですね。 ちなみに近衛前久の年齢は秀吉のひとつ上なので、51歳のおじさんが50歳のおじさんを猶子にしてます。さらに余談ですけど前久は本願寺教如や津軽為信も猶子にし…

よくわかる第一次上田合戦

…半のクライマックス「第一次上田合戦」です。 ご存知のとおり、真田昌幸は上田城で二度、徳川軍を撃退しています。その最初の合戦が今回の「第一次上田合戦」で、たんなる籠城戦ではなく撤退する徳川軍を城外まで追撃してることから地名をとって「上田・神川(かんがわ)の合戦」や「神川合戦」とも呼ばれます。 ざっくりと合戦の経緯をまとめました。 (いうまでもなく「諸説あり」満載の経緯なので、事実と異なる部分があるかもしれません) 信幸が一隊を率いて戸石城に布陣 徳川軍が上田城を攻撃 二の丸門ま…

真田幸村(真田信繁)ってどんな人?(おもな出来事をまとめた年表)

…臣の待遇で迎えた。「第一次上田合戦」で約7,000の徳川軍を撃破。 秀吉が関白となる。 1586年(天正14年) 20 7月、家康が昌幸征伐のために甲府に出陣するも、8月7日に秀吉の調停を受けて停戦。11月4日、秀吉の命令で昌幸は家康の与力大名となる。 景勝、家康、ともに秀吉に臣従。9月9日、秀吉は豊臣の姓を賜り、12月25日には太政大臣に就任。 1587年(天正15年) 21 昌幸、上洛して正式に秀吉に臣従。信繁、羽柴家の人質として大坂に出仕。信幸、本多忠勝の娘で家康の養女…

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