攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

筒井順慶 の検索結果:

【江戸時代のお家騒動】筒井騒動 改易のウラには家康による深謀遠慮があった!

…72年(元亀3年)に筒井順慶の養子となった。順慶は織田政権下で勢力を伸ばした武将である。定次の父・慈明寺順国は、順慶の父である筒井順昭の弟にあたる。そして定次の母は順慶の姉にあたるため、順慶と定次は従兄弟であると同時に叔父と甥の関係になるのだ。 1584年(天正12年)、自身の死が近いと感じた順慶に家督を譲られ、定次は23歳で筒井家を継いだ。この年、羽柴秀吉が織田信雄を始めとする反秀吉勢力と戦うため、伊勢に出陣した。いわゆる小牧・長久手の戦いである。この時に定次も参陣し、以後…

【お城の基礎講座】84. 三大山城(さんだいやまじろ)

…(たかとりじょう) 筒井順慶によって近世城郭に改修された高取城は、標高583mの高取山に築かれました。比高は最も高い390mです。江戸時代は本多氏、植村氏が城主を務めました。南北に長い尾根筋に高石垣が築かれ、27基の櫓が備えられた大城郭でした。かつては三重三階の天守が小天守とともに建てられていたそうです。27基の櫓が備えられた大城郭でした。 高取城は比高390mに築かれた大城郭 備中松山城(びっちゅうまつやまじょう) 天守が現存していることで有名ですが、現在十二天守の中で唯一…

明智光秀と筒井順慶ーーあるいは日和見は真実か否か

筒井順慶は大和の大名である。代々興福寺の衆徒で、曽祖父の代からは衆徒の棟梁を務めたのが彼の血筋であった。父の代にはほぼ大和一円が筒井氏の支配下にあり、父の急死を受けてその子の順慶(1歳とも、2歳とも)が後を継いで勢力も継承した。しかし松永久秀の急な勢力伸長に脅かされ、一度は本拠地の筒井城を失うほどの窮地に置かれた。若き順慶は久秀とたびたび争い、ときに「敵の敵は味方」ということで久秀と敵対する三好三人衆と手を組むこともあった。 このような状況下で織田信長が上洛してくる。順慶は当…

【戦国を彩る名軍師たち】三成に過ぎたるものが二つあり――島清興

…人の子として生まれ、筒井順慶の補佐をして頭角を現した。ところが順慶の死後に跡を継いだ主君と喧嘩別れをし、諸国を放浪。蒲生氏郷や豊臣秀長といった名だたる将に仕えたのち、石田三成の家臣となった。 三成は豊臣政権で五奉行を務めた人物であり、典型的な官僚タイプである。決して武功がないわけではないが、小説『のぼうの城』で有名な忍城攻めの失敗(小田原征伐の際、北条方の城に水攻めを行うも失敗、非常に攻めあぐねた)などの例を見ても、戦場の猛将ではない。 そこで彼は武勇で知られた清興に目をつけ…

本能寺の変の謎(明智光秀による犯行なのか、黒幕がいるのか)

…、その後に細川藤孝や筒井順慶へ協力を求めた際にも、義昭の名前が見当たらないことが不自然なんですよね。このままでは光秀は主君・信長に逆らった逆賊でしかなく、その行為の正統性を示すためにも足利義昭の名前を出すのは当然です。 たぶんこれはないと思います。 朝廷黒幕説 次は朝廷です。 いわゆる「三職推任問題」での信長の対応をみて、朝廷側が、信長は朝廷を滅ぼす意思を持っているのではないかと考え、信長を殺そうとしたという説です。 さらに当時は秀吉による中国攻めが佳境を迎えており、その結果…

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