攻城団ブログ

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結城合戦 の検索結果:

【クーデターで読み解く日本史】父の無念を晴らすべく子が起こした騒動――享徳の乱

…ある春王・安王兄弟も結城合戦で捕らえられて殺されたのはすでに見てきたとおり。しかし、持氏の四男である足利成氏(あしかが しげうじ)は兄たちとともに結城合戦に参加したものの助命されていた。そして1449年(宝徳元年)9月、鎌倉に入って鎌倉公方の座を継いだのである。 幕府としては不安定な状態が続く関東を治めるために新たな鎌倉公方を置いたのだが、これが逆効果だった。成氏としては父の仇である関東管領・上杉氏への憎しみを抑えきれなかったようで、また鎌倉公方派と関東管領派で関東の武士たち…

【クーデターで読み解く日本史】謀殺将軍にふりかかった謀殺の罠――嘉吉の乱

…かまつ みつすけ)が結城合戦の勝利を祝って義教を自らの屋敷に招き、宴もたけなわとなったところ、突然に数十人の刺客が現れて義教を殺害してしまったのである。この時、義教に同行していた者たちは果然として何もできず、また管領・細川持之(ほそかわ もちゆき)らはすぐさま逃げ出してしまったという。 もちろん、その犯人は赤松氏であった。満祐やその子の教康(のりやす)らは刀に刺した義教の首を掲げ、屋敷に火を放って、本拠地へ戻ったとされる。犯行の動機は義教への不信感であった。当時、義教が赤松氏…

【クーデターで読み解く日本史】関東管領への反発が招いた公方残党の結集――結城合戦

…具体的な形を取った。結城合戦である。 発端は1440年(永享12年)、足利持氏の遺児である春王(はるおう)・安王(やすおう)兄弟が持氏派の残党に担ぎ出される形で挙兵したのだ。そして彼らの呼びかけに応え、反上杉勢力を結集させる役目を担ったのが下総国の国人・結城氏朝(ゆうき うじとも)である。さらに少なくない数の関東武士が氏朝に味方したが、やはり関東管領に、そして幕府に対抗するにはあまりにも非力だった。 それでも、結城城に立てこもった氏朝と5千の兵は、総勢十万ともいう幕府方の大軍…

【クーデターで読み解く日本史】鎌倉公方の夢の先には戦国の扉あり――永亨の乱

…い出た。しかし、義教がこれを許さない。もともと彼は残忍で執念深い気質の持ち主であり、「万人恐怖」と恐れられるような男だった。そんな彼が長年のライバルを許すはずもない。結局、1439年(永亨11年)2月、憲実は持氏を攻め、火を放っての自害へ追いやらざるを得なかったのである。 こうして四代にわたって続いた鎌倉公方は途絶え、鎌倉府も一時消滅することになった。しかし持氏の遺児がまつわる内乱はこの後も結城合戦に享徳の乱と続き、関東地方は他地域より先に戦国時代へと突入していくことになる。

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