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【クーデターで読み解く日本史】謀殺将軍にふりかかった謀殺の罠――嘉吉の乱

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1441年(嘉吉元年) ○室町幕府 ×赤松満祐

6代将軍・足利義教(あしかが よしのり)は将軍親政を目指して奔走した人であるが、そのやり方は少なからず強引であり、また本人の性質のせいか残虐な行為も目立った。
先述の足利持氏(あしかが もちうじ)を殺させてしまった例などはまさにその一つである。一色義貫(いっしき よしつら)や土岐持頼(とき もちより)といった有力守護が謀殺されたこともあり、「次は自分が殺されるのではないか」と危機感に襲われた守護も多かったのではないか。

そんな中、1441年(嘉吉元年)、事件は起こる。
播磨・備前・美作の3ヶ国守護である赤松満祐(あかまつ みつすけ)が結城合戦の勝利を祝って義教を自らの屋敷に招き、宴もたけなわとなったところ、突然に数十人の刺客が現れて義教を殺害してしまったのである。
この時、義教に同行していた者たちは果然として何もできず、また管領・細川持之(ほそかわ もちゆき)らはすぐさま逃げ出してしまったという。

もちろん、その犯人は赤松氏であった。満祐やその子の教康(のりやす)らは刀に刺した義教の首を掲げ、屋敷に火を放って、本拠地へ戻ったとされる。
犯行の動機は義教への不信感であった。当時、義教が赤松氏の庶流である赤松貞村(あかまつ さだむら)に2ヶ国守護の座を与えようとしている、という噂が流れており、これに危機感を覚えた赤松氏は将軍暗殺という暴挙に踏み切ったのである。

この緊急事態に対応したのが、暗殺の場から命からがら逃げ出した管領・細川持之である。
彼は義教の子の千也茶丸(せんやちゃまる=足利義勝(あしかが よしかつ))を後継者に定め、また赤松氏を討伐するべく軍勢を派遣した。赤松方も抵抗したが敗れ、満祐は自害して果てた。

こうして事件そのものは終結したが、将軍が当時の資料に「自業自得」と書かれるような形で死んだことに変わりはなかった。
このことは将軍の権威に大きな傷をつけることになり、足利将軍と室町幕府失墜の原因の一つとなったのである。

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