攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

若狭武田氏 の検索結果:

【10大戦国大名の実力】武田家①――名門の長所と短所は背中合わせ

…するなどの活動が見られるが、三好氏などの外敵による侵攻や、家督争いや家臣の反乱といった内紛により衰退していく。兄・足利義輝を松永久秀らによって殺された足利義昭が親族の縁をたどって助けを求めた際も、若狭武田氏には既にその力がなかった。失望した義昭は隣国・越前の朝倉義景のもとへ向かい、これも頼りにならないと知ると織田信長のもとへ移るのだが、また別の話だ。その後、若狭武田家は朝倉氏の侵攻に晒されて降伏、その家臣になった後、信長の越前侵攻で滅亡する。1573年(天正元)のことである。

細川藤孝と麝香のなれそめについて調べたら足利将軍が出てきた

…氏の家臣でした。この若狭武田氏は足利将軍家と関わりが深く、当時の当主・武田義統(よしむね)は足利義晴の娘(足利義輝・義昭の妹)を正室に迎えるなど姻戚関係にもありました。義輝暗殺後に奈良から脱出した義秋(義昭)は越前に向かう前に妹婿の義統を頼って若狭へ移っています。しかし息子との家督争いや重臣の謀反などがあり、とても上洛できる状況ではなかったことから、朝倉氏を頼ったという経緯です。 おそらくこの若狭滞在の時期には藤孝も奥さんの実家に顔を出していた可能性があります。あるいは沼田氏…

明智光秀と明智牧ーーあるいは創作に語られる「母」

…義統の子・元明の代、若狭武田氏は隣接する越前の朝倉義景の侵略を受け、実質的な支配下に置かれている。その後、織田信長が朝倉を打倒したことで人質になっていた元明も解放されたものの、信長は彼に本来の地位たる若狭守護を返さなかった。若狭は信長の重臣である丹羽長秀に与えられ、元明はその与力という位置に甘んじなければならなかったのである。そんな彼の運命が開かれるかと思われたのが本能寺の変だ。信長が光秀に討たれると、元明は即座に(『明智系図』を信じるなら)従兄弟にあたる光秀に与して、丹羽長…

フィードバックのお願い

攻城団のご利用ありがとうございます。不具合報告だけでなく、サイトへのご意見や記事のご感想など、いつでも何度でもお寄せください。 フィードバック

読者投稿欄

いまお時間ありますか? ぜひお題に答えてください! 読者投稿欄に投稿する