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【10大戦国大名の実力】武田家①――名門の長所と短所は背中合わせ

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名門・武田家と信玄

戦国時代、数多くの守護代や国人たちが勢力を伸ばした末に、自らの上に立つ名門武家を倒す「下克上」を行い、その武名を上げていった。
しかしその一方で、古くから守護を務めるような名門武家のなかからも強力な戦国大名が現れ、元々持っている地盤と家臣団の力で強大な勢力を手に入れていったのもまた、事実である。そして、そうした名門出身の戦国大名の代表格といえば、徳川家康を破り、織田信長を追いつめた、甲斐の武田信玄の名が自然と挙がるのではないだろうか。

信玄に敗れた家康が彼を深く尊敬したことから、江戸時代においては偶像化・神格化が進み、その名将としての評判は現代にまで届いている。
彼の配下には後世に「武田二十四将」の名で讃えられたような優れた武将たちがそろい、また戦国最強をうたわれた武田騎馬軍団の勇名も轟いている。
だがその一方で、武田家には名門武家であるからこその弱みも存在した。

それは、「力の強い部下が多すぎた」ということであった。現代でいうなら「伝統ある企業グループだが、それぞれの会社の独自性が強くて、リーダーの発言力が強くないとバラバラになる」状態だったのである。
この弱みが表面化したからこそ、信玄の死後に跡を継いだ勝頼は家中をまとめきれずに苦しみ、ついには織田・徳川連合軍の勢いに屈して天目山の露と消えた。
そこで、本章では武田家の名門ゆえの強さと弱さについて注目しながら紹介していきたい。

新羅三郎を祖とする?

武田氏は清和源氏の血に連なる一族であり、一般にその祖とされるのは河内源氏の源義光――「新羅三郎義光」である。
彼は源頼朝の先祖にあたる源義家、「八幡太郎義家」の弟にあたる。ここからも武田氏の名門ぶりがわかるのではないだろうか。

「新羅三郎以来」という名門意識が武田氏にあったことは間違いない。
その象徴が出陣式だ。武田の将は出陣前に新羅三郎ゆかりの品とされる「御旗(みはた)」と「楯無(たてなし)の鎧」の前にそろい、「御旗、楯無、御照覧あれ!」と唱えたと伝わっている。先祖から連なる血と家を大事に思うからこその習慣であろう。

しかし、実際には義光が武田を名乗ったことはない。
その名を名乗るようになったのは、義光の子・義清が常陸国吉田郡武田郷に移り住み、「武田冠者」と称した後とされる(諸説あり)。そのため、武田氏の祖は義清、と考えるべきだろう。
この義清は息子の清光があまりにも乱行が過ぎたことから息子ともども甲斐国市川荘に流されてしまう。ここから、武田信玄につながる甲斐武田氏の歴史は始まったのである。

さて、清光の長男は別の家を継ぎ、代わって次男の信義が武田氏を名乗る。彼は鎌倉幕府設立に大いに貢献したことから御家人となり、甲斐国守護の地位を与えられた。
以後、武田氏は(一時期二階堂氏に奪われたことはあったが)鎌倉時代を通してこの地位を守っていくことになる。
南北朝時代においては当時の当主・信武が足利尊氏に味方して功績をあげ、鎌倉時代も何度か武田氏が与えられたことのある安芸守護の地位を得ている。この地位は次男の氏信が継承し、彼の血筋が安芸武田氏として残っていくことになる。

安芸武田家と若狭武田家

ここで少し脱線して、他の武田氏について紹介してみることにしよう。
戦国時代に活躍した武田氏としては、信玄に代表される甲斐の武田家のほか、安芸武田家と若狭武田家が知られている。
安芸武田家はすでに述べたように氏信に始まる家系だ。実はこの氏信、安芸守護の地位を没収されてしまうのだが、彼の子孫は安芸の分郡守護の地位を守り続けた。
また、後には若狭守護の地位を獲得し、こちらが本家となる。若狭武田家の始まりである。

安芸武田家からは戦国時代初期に元繁が現れ、若狭武田家から独立。彼は細川氏や尼子氏の支援を受けながら中国地方の覇者・大内氏と対立し、勢力を伸ばしていった。
ところが、1517年(永正14年)に元繁が有田合戦で毛利元就に敗れて討ち死にすると衰退を始め、1541年(天文10年)には滅亡してしまった。
しかし、その生き残りである竹若丸は一族滅亡後に僧侶となり、安国寺恵瓊を名乗った。彼は後に毛利家の外交官として活躍するようになり、豊臣政権でも重用されて大名にまでなった。

一方、若狭武田家は戦国時代になって丹後に侵攻するなどの活動が見られるが、三好氏などの外敵による侵攻や、家督争いや家臣の反乱といった内紛により衰退していく。
兄・足利義輝を松永久秀らによって殺された足利義昭が親族の縁をたどって助けを求めた際も、若狭武田氏には既にその力がなかった。失望した義昭は隣国・越前の朝倉義景のもとへ向かい、これも頼りにならないと知ると織田信長のもとへ移るのだが、また別の話だ。
その後、若狭武田家は朝倉氏の侵攻に晒されて降伏、その家臣になった後、信長の越前侵攻で滅亡する。1573年(天正元)のことである。

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