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【10大戦国大名の実力】島津家⑥――島津家の歴史

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その後の島津家

関ヶ原の戦いで見せた島津軍の活躍があまりにも印象的だったのだろうか?
戦後、家康は3年にわたって慎重に島津氏との外交交渉を続け、最終的に義久・忠恒らが関与しなかったことを認めて旧領を安堵している。他の西軍諸将が取り潰しか領地の大幅減を申し渡されていることを考えると、これがどれほどの厚遇かわかる。

1604年(慶長9年)には家督が忠恒に譲られるが、義久・義弘が巨大な権限を残していたことには変わりない。
この三者がそれぞれ当主に準じる力をもっていた時期を「三殿体制(さんとのたいせい)」と呼ぶ。1610年(慶長15年)ごろ、この三者の関係が悪化していたのはすでに述べたとおりだが、翌年には義久が病死したので大きな混乱にはつながらなかった。ここでようやく島津家の権力は当主・忠恒に集約されることになったわけだ。

その後、島津家は薩摩藩主として江戸時代の終わりまで残った。
幕末期には英才として名高い島津斉彬を輩出、さらに薩摩藩からは西郷隆盛ら多数の維新志士が現れ、長州藩と共に倒幕・明治維新への原動力となった。

複数リーダーは諸刃の刃

戦国大名・島津家は華々しい活躍に飾られた一族である。
しかし、その背景には一族の内乱や兄弟の反日、中央権力による干渉などの度重なる苦難があった。むしろ、島津家の凄まじいまでの戦闘能力はそのなかで磨かれたのだ、と思えば納得もいくというものだ。

たとえば、関ヶ原での撤退時に使った戦術は島津家に伝わる「捨てがまり」と呼ばれるもので、主君を逃がすために家臣が次々と追手に打ちかかり、命を盾とするものだ。こんな戦術が受け継がれていること自体、彼らが時に絶望的な撤退戦を戦わなければならなかったことを示している。圧倒的な力をもっているなら必要ないはずなのだ。
そのなかで躍進の原動力となり、また最大の弱点になったのが「兄弟の力」だった。勃興期には複数のリーダーがいることで組織は一気に成長する。しかし、安定期には各リーダーの思惑が干渉しあって組織を混乱させる。

これは現代の企業を悩ませる派閥対立の根っこと同じものだ。組織は状況に合わせて臨機応変に構造を変えていくのが理想だが、実際にはもろもろのしがらみが絡み合ってそうはいかないもの。
結果として複数のリーダーが不要なときにも並び立ち、敵対企業はそこをついて乗っ取り工作を仕掛け、社員は「誰に従えばいいのか」と悩まされる――というわけだ。
分散されたリーダーシップは組織にとって諸刃の刃――それを端的に示すのが島津家の歴史なのである。

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