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【10大戦国大名の実力】長宗我部家①――イノベーションの遅れは致命傷①

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ジェットコースター的戦国大名の祖先は始皇帝!?

長宗我部氏は戦国時代という約百年間のなかで、一度「滅亡」し、「復興」し、「躍進」して「一国を制覇」、さらには豊臣秀吉の侵攻を受けるまでのごく短期間のことながら「一地方をほぼ制覇」しつつも「内乱から衰退」して「改易」を受け、しかし最後の当主が大坂の陣で「奮戦して討ち死に」――と、物凄く起伏の激しいジェットコースターのような経緯をたどった一族である。

戦国大名が経験しうるイベントも数あるが、それらをもうほとんどコンプリートといっていい勢いで経験していったのが長宗我部家なのだ。
ここからはこのジェットコースターの軌跡をたどりながら、長宗我部家がどのような家だったのかを見ていくことにしたい。

長宗我部家を見ていく中でまず面白いのがその祖先と伝えられている人物だ。
なんと、古代中国のファーストエンペラー、秦の始皇帝の末裔だというのだから驚きである。始皇帝の子孫が朝鮮半島経由で日本へ渡ってきて渡来人・秦氏となり、飛鳥時代にはその中でも族長格であった秦河勝(はた の かわかつ)という人物が聖徳太子に仕えた。

さらにその子孫が鎌倉時代の初め頃になって四国に渡り、土佐国長岡郡宗部郷に住みつく。
この際に土地の名前(宗我部氏)を名乗り出したのだが、すぐ近くに香宗我部氏がいたので、区別のために「長宗我部」を名乗ったのだという。
しかし、蘇我氏部民の出身という説もあるため、はたして本当に始皇帝や秦河勝の子孫であるのかどうか、定かではないのが実際のところである。

土佐バトルロイヤルの開始

さて、長宗我部家のいた四国は、室町時代のほぼ全時期を通して伊予を除く讃岐・阿波・土佐の三ヵ国が三管領家の一つ細川氏の領国となっていた。もちろん、長宗我部家もその支配下にあって、寺奉行などをやっていたようだ。
ところが、その細川氏が応仁の乱後に内乱を繰り返して衰退していくと、土佐にも戦国時代が訪れる。とくに、1502年(文亀2年)に土佐守護代の細川勝益(ほそかわ かつます)が京で死に、続く1507年(永正4年)に当時の細川京兆家(細川氏宗家)当主の政元が暗殺されると、その傾向は一気に加速。細川氏の支配力が消滅した土佐では、国人領主たちが熾烈な勢力争いを繰り広げることになる。

この時期の土佐における勢力図を概観すると、まず別格として一条氏が存在した。
これは藤原氏に連なる名門公家で、応仁の乱を避けて京より下向してきたものだ。なにせこの時土佐に来た一条教房(いちじょう のりふさ)という人は関白にまでなった人だから、家格としても武力としても土佐において群を抜いた存在であり、周辺国人の盟主的な位置に収まったようだ。
そして、一条氏に続く形で「七守護」と呼ばれる有力国人たちが連なる。すなわち、本山・安芸・大平・山田・津野・吉良・そして長宗我部の各勢力である。その下にはまた小規模な国人領主たちが存在し、土佐は彼らによって一大バトルロイヤル会場となったのである。

長宗我部の復活と一領具足

土佐バトロイヤルにおいて長宗我部家は細川氏と深く結びついて大きな勢力を得ていたが、それだけに戦国時代初期には「威を借るべき虎を失った狐」ともいうべき状況に追い込まれてしまったようだ。
1508年(永正5年)――あるいは1509年とも――、七守護のうち本山・吉良・大平・山田氏らが同盟を結び、長宗我部家を攻撃。居城の岡豊城が陥落し、時の当主・長宗我部兼序(ちょうそかべ かねつぐ。元秀(もとひで))は自害へと追い込まれた。ここで長宗我部家は一度滅亡してしまったのである。

ところが兼序は攻め滅ぼされる岡豊城から、自分の子の千雄丸を逃していた。
彼は一条房家(いちじょう ふさいえ)の庇護を受けて成長し、元服して長宗我部国親(ちょうそかべ くにちか)を名乗った。のちに四国を制覇することになる元親の父である。房家はこの国親を10年にわたって保護したうえ、国人勢力との間を仲介して岡豊城を取り返してやった。
こうして長宗我部家の再出発は始まったのだ。ちなみに、房家が国親を救ったのは、もともと細川氏経由で親しい関係があったためであるようだ。

国親は周辺の大勢力でかつ父の仇のひとつである本山氏と婚姻関係を結んで和平を取り付ける一方で、小規模な国人を吸収してその勢力を着実に拡大させていく。
そうしていよいよ本山氏との対決姿勢を鮮明にするのだが、戦いのさなかで病に倒れてしまう。
いわゆる「一領具足(いちりょうぐそく)」制度も、おそらくこの国親の時代に形作られたのではないだろうか。一度長宗我部氏が滅亡していることを考えると、その方が自然であるように思う。

一領具足は半農半兵の下級兵士であり、長宗我部家臣が「寄親」となって彼らを統率する。
普段は農作業をしているが、ひとたび召集があると田んぼのあぜ道に立てかけておいた槍を取って出陣した。名前の由来は鎧を一つ(一領、と数える)しか持たず、替えなどなかったことから来ているとされる。
戦国時代、ほとんどの兵士たちは兵農未分離の農兵であったため、一領具足もその一種と考えるべきだろう。にもかかわらず長宗我部の一領具足がその名を広く知られるようになったのは、長宗我部軍団の主戦力として四国統一の原動力になったことに加え、その成立経緯にも原因がありそうだ。

これについては、以下のような推論がされている。すなわち、土佐の国人領主たちが細川氏衰退後の激しい混乱によって次々滅亡すると、彼らの下にあった土豪・地侍といったそれこそ半農半兵の下級武士は、長宗我部氏によって(寄親経由ではあるが)直接統治されることになった、という。
長宗我部氏がこうした下級武士を多数抱えこんだ形で武名をあげたからその名が知られるようになった、というのは十分ありそうな話ではないだろうか。

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