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【10大戦国大名の実力】長宗我部家②――姫若子から鬼若子へ

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姫若子の土佐統一

病死した国親の跡を継いだのは嫡男の元親だったが、どうやら幼い頃の彼はあまり周囲から期待された存在ではなかったようだ。
生まれつき背は高かったが、色白で柔弱、無口で人とあってもあまり挨拶をしない。そうしたことから父・国親は「うつけ者」と嘆き、周囲は「姫若子(ひめわこ)」と呼んでさげすんだ。

ところがこの元親、初陣において当初は味方から離れてぼんやりしていたというが、のちに手勢をひきつれて敵軍のただ中を駆け回って大活躍。大きな戦功を挙げた。これによって周囲の見る日も変わり、「鬼若子(おにわこ)」あるいは「土佐の出来人(できびと)」と褒め称えたという。
家督を継いだ元親は本山氏との抗争を継続してこれを降伏させると、続いて安芸氏を攻め滅ぼし、土佐の東半分を制圧した。

ちょうどその頃、かつて長宗我部家の復興に尽力し、土佐の西に大きな勢力をもつ一条氏が伊予出陣の失敗によって衰退を始めていた。元親はここに付け込み、酒色にふけって家臣の人望を失った当主・一条兼定(いちじょう かねさだ)を1574年(天正2年)に追放させ、内乱がおきたところで介入。翌年には土佐を手中に収めた。
なんと、一度滅亡の憂き目にあってから60年ほどでの快挙である。しかし、元親の快進撃はここでは終わらない。

三好氏との戦い

中小国人たちによるバトルロイヤルに勝利して土佐を手にした長宗我部家は、続いて四国の残り三ヵ国――阿波、讃岐、伊予への進出を開始した。まずは阿波と讃岐への侵略の様子について紹介したい。
さて、すでに述べたようにかつて四国のほとんどは細川氏の勢力範囲であった。しかし、その細川氏は内乱によって急速に衰退していった。代わって台頭したのが、細川氏の重臣の位置にあった三好長慶(みよし ながよし)である。

彼は四国と近畿にまたがる強力な政権を打ち立てたが、晩年になると親族の相次ぐ死もあって失速。代わって長慶の側近であった松永久秀や三好三人衆といった者たちが力を増して勢力争いを繰り広げた末に、京へ進出した織田信長によって追い散らされる――という複雑な経緯を経て、この時期の阿波・讃岐は三好一族による支配下にあった。
そこに元親による侵略がはじまる。しかも1577年(天正5年)、事実上の阿波の支配者であった三好長治(みよし ながはる)が名目上の主君にあたる細川真之(ほそかわ さねゆき)を倒そうとして敗れ、逆に自害に追い込まれるという事件が起こり、混乱する三好勢力は長宗我部軍によって追い詰められていく。

しかし、長治の弟で十河(そごう)氏を継いでいた存保(まさやす)が三好の家督を継承すると、しばらくの間は「長宗我部有利だが三好も粘る」という状況が続いた。

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