攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

逆さ の検索結果:

城葱さんの「城もなか」道中記【鳥取・島根編】

…うに乗せたり、大胆に逆さにダイブさせたりと、最後の一手を楽しむことができます。 また城もなか皮の片面使用パフェの楽しみのひとつ、城もなかをどう食べるかというところも自分であれこれ考えられます。少しずつパフェの甘さの間に挟んでかじったり、クリーム乗せて食べたり、フルーツと合わせて食べるなど、楽しみ方は無限大。一回では遊び尽くせない遊園地のよう。また新しい楽しみ方を試しにいかないとなー。 最後の一手をお客さんがやるというところは、お店の体験にこだわったポイントかなと思っています。…

城葱さんの「城もなか」道中記【九州編】

…が穏やかなら、きっと逆さ小倉城の姿も見られることでしょう) ここは小倉城の水堀とそびえる石垣、南蛮造りを模している模擬天守がすべてフレームに収められます。案内図にも紹介されていますが、小倉城一のフォトスポットだと私は思います。次に、趣深い八坂神社との間(北の丸と本丸の間)にある堀。 個人的な趣味ではありますが、堀内に生える草に苔むす&草茂る石垣と白い塀が、なんともいえない趣を感じます。山奥にある城のような、神社の立木に隠されていて、隙間からそっと覗くと広がる、緑に覆われた白い…

【「籠城」から学ぶ逆境のしのぎ方】悲劇の舞台②――悲劇の女城主伝説の城・岩村城

…ることもあったが、信忠が先頭に立ってこれを撃ち破っている。包囲戦は半年近く続き、岩村城は限界に追い込まれた。 そこに織田方から「降伏すれば命は助ける」という申し出があった。これを信じて信友とおつやの方は降伏して城を出たが、織田方はその約束を破って二人を処刑してしまった。結局、おつやの方は逆さ傑という無惨な最期を遂げたという。さらに、織田軍は城内に残っていた兵や遠山一族の投降を許さず、城に火をかけて焼き殺してしまった。これにより、遠山氏は滅亡したのである。 kojodan.jp

【歴代征夷大将軍総覧】鎌倉幕府7代・惟康親王――元寇の時代の傀儡将軍 1264年~1326年

…動手段である網代車は逆さまであった、という。これは明らかに異常なことだ。 この際、人々は「将軍が京へ配流される」と噂した。配流というのは本来罪を受けて僻地に流されるものだが、日本の中心であるはずの京への配流、というのはおかしい。にもかかわらず、彼らが「配流」という表現を使ったのは、鎌倉=武家政権と京=朝廷の関係が決定的に逆転していたことを意味する。また、そのことに対する揶揄の意味もあったのだろう。成り上がりの武士たちが、すっかり天皇や公家たちをないがしろにしている、と。 京に…

【戦国時代の境界大名】相良氏――大大名に挟まれながらも、九州の動乱のなかで戦い続ける

…、一族の相良長定に反逆され、自害へ追い込まれてしまう。しかし、長祗の庶兄に当たる義滋(1491―1546)が立ち、上村城主(あさぎり町)で義滋と従兄弟の間柄にある上村頼興の助けを得て、どうにか相良一族内部の内紛を収めることができた。義滋の後は相良晴広(1513―55)が継いだ。この晴広は上村頼興の子で、養子として迎えるのが義滋を手助けするときの頼興の条件であったらしい。 この義滋・晴広の時に相良氏は天草の争いに介入して長島(鹿児島県長島町)を手に入れるなど、力を伸ばしている。…

琉球国王・尚円王の生まれ故郷である伊是名島を取材してきました

…えていたため、「水が逆さに流れたのではないか」と噂になり、逆田の名がつけられたそうです。 なお水騒動については似たようなエピソードがほかにもあるので創作の可能性もあるのですが、伝わっている金丸の人物像(働き者でイケメンで頭がいい)を考えれば島の女性たちがほっとかないので、男たちの嫉妬を避けるために島を脱出した可能性もあるかもしれないと中川さんはおっしゃっていました。それを裏付けるのが、この歌碑です。 島一番の好男子である金丸がいなくなったことを嘆いた歌ですが、金丸のためならば…

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