攻城団ブログ

お城や戦国時代に関するいろんな話題をお届けしていきます!

那古野城 の検索結果:

【10大戦国大名の実力】織田家②――尾張における下剋上と弾正忠織田家の台頭

…那古野今川氏を倒して那古野城を奪取。さらにその手は尾張国外へまで延び、東は三河へ進出して松平氏や今川氏と戦い、北は美濃で斎藤氏との勢力争いを繰り広げた。しかし、残念ながら信秀自身はそうした勢力拡大が大きな成功を収める前に42歳で死去した。 信長の活躍と死 信秀の死後、いよいよ信長の活躍が始まる。信秀は生前に国内の有力勢力である清洲・岩倉の両織田家や斯波氏を叩くようなことをしなかったため、没後には国内の勢力が次々と離反していくことになった。そのため、家督を継いだばかりの若き信長…

「麒麟がくる」第9回に登場した那古野城と刈屋城、末盛城、妻木城はどんなお城か

…、お城の紹介です。 那古野城――跡地はいまの名古屋城内に―― 先週の「麒麟がくる紀行」で紹介されていましたが、帰蝶が輿入れした信長の居城です。織田信秀が信長に譲った城ですが、もともとは今川義元の父である今川氏親が築いた城です。氏親は北条早雲(伊勢新九郎盛時)の甥で、北条氏が関東に勢力を拡大するキーパーソンでもあります。さらにこの地はのちに徳川家康が名古屋城を築く場所でもあり、出てくる名前がビッグネームばかりです。ちなみに場所はいまの名古屋城の二の丸あたりで城址碑が立てられてい…

明智光秀と帰蝶(濃姫)ーーあるいは歴史の陰の女

…4年(天文23年)に那古野城内で誕生した信長の子・信正のエピソードがある。彼を生んだのは織田家臣の妹であったが、「御台(正室)」の反発によって城内で養育することは叶わなかった、という。信長の御台と史料に記されるのが誰かは判別つかないことが多いのだが、ここでは帰蝶のことであろうと考えられている。 また1569年(永禄12年)、信長の宿敵であった義龍の遺灰が入った壺を巡るエピソードもある。信長は義龍の妻からどうにか壺を奪おうと思ったができなかった。なぜ諦めたかというと、「信長の本…

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